対談企画 中国人の中国観【 前編】(劉傑教授×柯隆特任教授)

おし ます片付け てはいえ皆様えこんにちはあの静岡県大学 グローバル地域センター特任教授の家です けれどもえ今日あの皆様おなじみのあの 早稲田大学教授のえ龍決先生えお招きして ですねえ私とこうこれからえ対談をえして いただき行きたいという風に思いますま今 から約1年前我々対面でですね1回あの 対談をしましてその時のアンケートえでは ですね皆様多くの方からあの是非定期的に こういうえ対談をえして欲しいというご 要望もありましてえ私に対する要望という にも流血先生に対する要望が強いと思って 今日あのまた流血先生ご多忙の中えにも 関わらずえ来ていだいてあのまたザバの話 をですねあのえしていきたいという風に 思いますまずえ一言えおりしておきたい点 はえ1年ぐらい前の話ですけれどもえ当時 我々2人何を会話したか全く覚えてないと いうことなんであのま全体でですねこれ から会話を進めていきたいという風にえ 思いますまずあのえこのえ対談のルールな んだけれども私がもっぱら質問するのでは なくてり先生もあの質問するえ権利お持ち でいらっしゃるでだからえ先生にもご質問 していただきたいという風に思いますでえ まずあのキックオフとして私の方からあの え我々2人がですね実はあのえ日本に来て からずっと日本で生活していてですね 私自身が204歳の時に中国離れてあの 名古屋留学に行ってですねその後え東京に 就職してずっと日本で生活してで計算し たらあの日本での生活の時間が中国での 時間よりもあのかなり長くなっていって あの龍先生も私よりもっと前に日本に いらっしゃったわけですけれども えまず私自身がですねあの日本に来てから え色々経験をさしていただいてえ振り返っ て一言で申し上げると あの来て良かったというのがえありますと いうのはあの中国で3年間のコロナがあっ てあのものすごく厳しいロッダえ伴うその いわゆるゼロコロナ政策実施されたわけ ですけれども最後2022年の12月突然 え中国政府がそのゼロコロナ政策を解除 するとで解除した後えたくさんの人 取り分け高齢者がですね一斉にあの感染を してしまってですねえ父親があの時感染し て私駆けつける暇もなくなぜかえと言うと 駆けつけてもですね上海北京の空港につい ていきなりどっか連れて行かれるわけです からだからわずか3日間で亡くなったわけ ですね中国に帰れなかったで去年のあの4 月あのえ母親と妹日本に呼び寄せて少し 気分転換してもらったんだけれども え来てくれてよかっただけれどもそれ帰り え私あの成田空港え送っていってですね あのえ出発のゲート入った後また戻ってき て母親がで一緒に2週間以上あの私と一緒 に生活ししたもんですから私日本での生活 仕事を見てくれたのでえ戻ってきてあの あなた日本に来てよかった と言って書いたわけですだからあのこれが 私日本に来てからの36年間総括してくれ た一言だと僕はあのえ強く感じている ところでございますさてあの龍先生があの 花々あのえ履歴をお持ちでいらっしゃるの であの元々中国で選ばれたエリート中の エリートで日本語勉強してえ来られたわけ ですけれども日本での生活一言え振り返っ ていただけます かはいあのまず本日もあの昨年にに続き またこのような機会をえいただきまして ありがとうございますあのえ今お話の中に ありましたあのその一言っていうのは なかなか一言は言い切れないようなものが たくさんこのありまして私は82年に日本 に来ましたのでえもう え42年になるということになります けれどもまえま日本に君に来てえ良かっ たっていうのはあのこの点は狩先生と全く 同感ですけれどもで私はそのこのコロナの ようなま経験はあるいは家族の中ではその ようなことはなかったんですけれどもで私 が1番やはり良かったことはあの好きな 研究ができてそしてまたあのなんて言っ たらあのやっぱりそのえま生活の中でです ね自分があの子供の頃に考えていた いろんなことをですねなんとなくそれなり にえ達成できたというようなことがあるの かなという風に思いましてま 充実したこの40年間ということを過ごさ せていただいたということはまざっといて そういうことだと思いますはいそうすると ですね あの1982年に本がしたわけですけれど もはいあの頃の中国とあの頃の日本と比べ て全く別の国のような感じですよねあの 発展登場国ま中国そのものまだキャッチ アップそうえしきれてないし私が最初北京 行ったのが実は88年なんですよえあの 日本に来てからえある代表団の通訳頼まれ て北京行ったんだけれどもはいあの ま中心部はいいんだけど少しでも離れた ところがまだ田房があって野菜を作ってた ような景色ありましたがそういうあの当時 の中国から北京から日本に来られてその いわゆるあのカルチャーショックっていう かいろんなそのギャップが多分ものすごく 強く感じられるえだと思いますけれども どうでしょううんはいまその辺は全くその 通りでしてで私が学んだ学校の周りは まさにえあの時はまだあのまま人民校舎 みたいなことが残っていて 野菜畑の真ん中に学校があるような感じで ありましたので あの朝とか夜は馬車が まだ道路を走っていたぐらいですからま あのそんな状況から日本に来たわですから あのもちろんそのカルシアショックという よりもえ全く未の世界に足を踏み込んだと いうそういうようなあの状況でしたまただ その時のま多くの中国人はやはりあの日本 についての情報はあまりないわけですから ねあの中国はやっと改革解放を始めた ばかりの頃でありましたのでまあの未知の 国に行くというあの若干不安があるのと むしろずっと閉ざされていた中国でしたの でえ心の方がむしろ強かったわけですねだ から不安だとかカルシアショックを感じる よりもえその好奇心に引かれていろんな あのところにえまあの旅行に行ったり見学 に行ったりとかま非常にこう貧乏旅行なん ですけどもそれはあの1年目のですね1番 印象に残ったことでしたねあはい私はね 88年日本にま名古屋に行ったんだけれど もあのちょうど日本のバブルがえがこれ から膨らんでいくぞっというあの タイミングでなお名古屋というところと いうこともあって あの文化的にというか習慣的にあのやや その見を張る土地化もあってですねうん うんこんなあの華やかな名古屋に来て 良かったのかどうなのかっていうのは色々 結構考え込んだことありましてというのは 当時南京では夜8時も過ぎればもう え電力足だからみんな天気を消して そろそろ寝るという時間でも名古屋あの 中心部はあの境23丁目っていう陥落街 連れて行かれてお酒飲みに行くと翌日の1 時だろうか2時だろうか出てきても全然 明るくてなんか東の長安に来たような錯覚 を起こしたこともあってうんすごいなと 思って あのだだやっぱりそのカルシショックは 大きかったんですでただそう言いながらも 僕はあの頃ずっといろんな人に聞かれたの がくあのホームシックしませんかって言わ れてて僕は正直に申し上げると ホームシックしたことは1度もないんです なぜなのかは自分が分からないうん すなわち 全てのタル立ったんじゃないかなだから 日本に全てあの期待をせてそのそのこれ から勉強するぞっという強い気持ち持って 名古屋にえ来たわけですけれどもうんさて あの もうもう1つの質問させていただいてから ちょっとり先生にご質問いただきたいんだ けれどもうんはい先生があの今大学で強弁 取ってらっしゃってておそらく中国人の 留学生たくさんあいらっしゃると思います けれども今あの日本に来てるあの例えば 留学生など中国人はですね我々30年以上 前40年以上前あのの時とちょっと違って いてあの今彼らが日本をどんように見て いると思いますはいあの非常に興味深いご 質問だと思いますがあのま我々が来た時に はあの中国がいわゆる開放政策を始めた ばかりの頃でありましてあの日本について の情報もそれほど多くありませんあのま 一部もちろんメディアを通してあるいは あの教科書とか学校教育の中で学んだもの はありましたけれどもまほの知識はあの 本当の日本の姿なのかどうか分からない ようなそんな状況の中で日本にやってきて 本当に自分でえま目で見てそして実際に 体験してでえ本当の日本の姿を自分のま あの体験の中で知っていくというそういう 状況でありましたけれどもで今のま学生 たちはあのかなり今情報がむしろ氾濫して いて本当の情なのかあの嘘の情報なのかと いういろんな情報がまメディアなどを通し てあのえ子供たちは学生たちは学んでいる わけですねそんな状況の中で来るわけです からすでにかなりの日本についてのま知識 や情報も持っている中にはかなりえ本当か どうかのようなそういうあの情報もあるか もしれないんですが我々よりは情報量が 多いということですねそれから情報量が 多いということはえその新鮮さと言います かあの刺激っていうものはある意味では あの足りないというかえそんなに強くない ないのかもしれないでもうすでに自分が かなり知っている日本に行っているとに来 ているというようなですね多分そういう 感覚をえ今の学生たちは持っているそう いう可能性があると思うんですねでえ さらに言うと我々が来た時にはとにかく 日本で学ぶ日本に学ぶそういう気持ちが 非常に強いわけでありますねでとにかく 学んでえまえ我々が子供の頃から受けた 教育も強かったもんですからとにかく国の 近代化のために何かをやるそういう思いが 非常に強いんですけれどもまあしかし今の 子供たちはもちろん自分自身の将来の進路 とか人生の設計ですねそういいたような ことを考えてやってきてあのそれほどま 問題意識我々があの時代に持っていた問題 意識とうん彼らが今持っている問題意識と の間には少しあの差があるのかなという風 にえ思いますまとにかく学んだ知識をえ 中国に持ってかいてどういう風にするのか という思いがあの当初非常にあったわけ ですけどもまあの今の子供たちは留学生 たちはえそちらの部分の方はあのかなり 違うんじゃないかなと思いますね自分の 人生をどうえ過ごすのかというところが あの1番重要なポイントになるのかなと 思いますがなるほどはいはいそれであの 先生が狩先生が来られた時にもままず大学 で学んだわけですけどもその専門分野を 決める時にですねどういうことを学ぶの かっていうのその決めというものは大体 どういうことを考えて決めていくんですか 決めていったんですかその時はあのとても 素晴らしいご質問だけれど答えにくいん ですがも経済勉強したくてなぜかお金が 欲しい てそうえというよりも実は中国にいた時に 経済っていうのはほとんど勉強したことが ないですねあの学校で教えてくれたその 政治経済学っていうものがうんマルクス学 でで作手とは何かあの労働者がですね働い てその余剰価値が資本家に取られたそれ どう計算するかそんなのうん私が勉強して でもなんかあの感想もみなもので全然 面白く何もないのででそれであの名古屋 行ってで何を勉強するのどこの大学の何 学部に入るかて僕は迷わずにどこの大学で もいいんだけど経済学勉強したいうんだ けど大きなショックを受けたのが当時のえ 日本では一部の大学を除けばほとんどの 大学の経済医学っていうのはマルクス経済 医学は多いわけで圧倒的に強いんですで そうすると僕最初にとったあのえ経済言論 という授業っていうのは年配の教授が入っ てきていきなりえ黒板にうん作手とは何か と書いてあるわけ です作手とは何か書かれててそれからあの えその資本家がそのあのリジンていうのは どうどう計算されてそれでそのそのうち 我々労働者のそのそのその余剰労働力の 部分どうえ作手されてちょっと待ってこれ 中国で言われたこととそっくりそのまま じゃないのかで僕はその教授のところに 行って抗議したんです先社会主義中国から 来て資本主義の日本に来てなであなたに このえマルクス勉強しなきゃいけないのか とか全く勉強できなくって焦ちゃったん ですよあの12年生はそれでですねあのえ 1つあの大変なことになったの がえ今分かってるけど当時はなかなか わかんなかったのが資産と資本と負債この 関係どうなってるかああのえ資本と資産 ってのなんとなく分かるけれどももこの 関係性が分からないうんでそこでどこで 分かったかというとどうやってこれね理解 できるようになるかってずっと苦労して 図書館でいろんなホを読んでてなかなか 分からないチプカプのこと書いてるもんだ からそれでですねあのある日あの会計額 簿記のあの授業取ったんだけれどもうん そこでバランスシードあの退職対象表を 書かなきゃいけないのでそれを学んだ時に あなるほどこれ定義としてあるんだ資産 イコールそのあの資本プラス負債だからて でそれであの覚えておけばあと全部この 関係で処理するのでそれでですね あの経済学のいわゆる基本の基本っていう のはようやく理解できていてそっから するするするっていくわけですけれども あの学部で最も僕は勉強して良かったのが 金融論っという授業なんだけれどもうん お金に興味があってだけどお金どこから出 てきどこ消えちゃったかってのが意外に わからないんです例えば一般の方に聞いて もですねうんま給料もらったんだけどでも そのお金どこに消えちゃったのか買い物し てなくなっちゃったでもそのお金どう ぐるぐるこう回ってるのがあってなかなか 分からなくてでえ金融論の授業真面目にえ 1年間勉強してあのいわゆる貨幣のですね その循環のスピードあのあのっての勉強し ててあのいやえなんかひらめたんですよで ひらめた後にある日その私のそのあ当時の その奥野先生という先生に呼ばれて書く君 は真面目に勉強してくれたのでこれ以上私 に学ぶものがないのであ名古屋大学の私の 兄貴兄貴文のあの仙田先生ところ行き なさいあの紹介所書いてくれてそれで持っ ていって大学院に入んてうんそっから昼夜 問わず2年間あの英語のいうジアの本とか ですねあのマネタリーせありあの貨幣の 理論を色々2年間勉強してであのうんま あの名古屋での6年間無駄ではなかったな というのはあの実感しましたねなうんはい 逆に先生のその歴史医学ってのはどうや あてあの国に言われてこう歴史を勉強され たわけではそうですね私はあの大学 はと北京の外護大学に入ったんですけれど も日本語をずっと勉強してはいたんだ けれどあのま留学に来るということであの 歴史学の方をえこれはあの半分言われて 始めたものなんですがま歴史には本来は 割と関心を持っていたわけですからまあ 特にあの日本の近代の歴史に非常に興味を 持ってあの学ぶなら日本の近代史がいいと いう風にえ始めたわけでありますけれども まあの実際にはあの中国の歴史教育という のはまそれこそ先生もあのマルクス経済学 ということでありましたけれどもま歴史学 も当然えまあの唯物主観とかですね マルクスの歴史観というものをベースにし ていたわけでありますがこの実証市学と いうものはあの私が来た時はまだ中国では それほど本格的にえ行われていたわけでは なかったわけですねまあのそういう意味で あのえ資料の読み方とかですねあのくじの 読み方とかそこから学び始めてえどんどん ですねあの関心を持つようになってえ深め られていったわけでありますがそれから あのまあの中国から80年代のこの前半や 半ば頃はですねえ中国も学務の世界も かなり開かれていてああの花あのかなり 覚えてるのは中国の大学の歴史の先生たち とかあるいは社会科学院の研究者たちは あの非常に頻繁に日本にですねえ来てあの 日本の歴史家たちと交流するというのを やっていたわけでありますね例えばあの 日中戦争50年とかを記念してですねえ 日本と中国の研究者たちがあのかなり本格 的な共同研究を行っていたわけですがで それまではとてもあのいわゆる共同研究を やるようなあの両国の学務水準の差が非常 に大きかったんですねで中国は歴史の資料 を使って実証的に研究するという伝統は昔 はあるあったんですけどもあの文化大革命 などの影響でほとんど中断されたんです けどねでえかなりですねこの日本の研究者 との交流の中で中国の歴史学が再建されて いくという部分がかなりあったわけですね そういう意味では日本の中国市研究者には かなりえ中国の近代子研究はお世話になっ たという風に思いますねその基本的なあの 研究の方法から歴史資料の共有とかですね いろんな分うんで日中のこのまこの歴史の 世界で言うとこの学術交流は非常に盛に 行われた時期があったんですねで私が留学 に来てた間あの大学で学んでいた間にも 中国からたくさんの研究者が短期でですね あの訪れてまあの資料を調査したりとか あの共同研究を行ったりとかですねそう いうことがあったのでまさに80年代私が あの学生として学んでいた頃はまあ中国の 歴史学が再建されてあのもう1度再 スタートするですねえそういう時期だった ように覚えていますそういう意味では中国 との交流はむしろその時は非常に多かった ですねあのね1つあの伺いしたいことが 要するに先生がもう専門家で歴史学の研究 をなされるわけだけれどもただ僕はあの5 年に書いた本にあの書いたんだけれどもと いうのはええ経済学勉強しててずっとこの エコノミストの仕事をしてきたわけです けれども近年実は気がついたら読んだ本の ほとんどが歴史の本なんですよね歴史の本 だけど僕は研究者でも何でもないだので ただ知りたいのは歴史の事実うんいやあれ ああいうの歴史の事実を読めば読むほど びっくりショックが大きすぎていってなぜ かというと今まで自分がうんあの教わった ことが随分違うなっていうのはねあので たくさん読みましたでしかもあの歴史の 事実なわけだから1つの本読んで1冊の本 読んでこれ全部事実かどうか判明できない ので極力あの例えば台湾で出版されたあの 台湾のそ中国語のあれはアメリカで出版さ れたあの最近だとスタンフォードの出版さ れた本英語の本あれ全部あの読み合わせし てですね裏をできるだけうんよにしている んだけれどもというのは我々我々のこの 世代中国人はですね1番多分ね歴史のその 基本的な事実のことについてものすごく 欠場していてですねもうあのえ結論ありき でこれあのこういうことこうだというのを 言われてそれでこうDNAに入ってる人も 大勢いらっしゃるんだけれども僕はあの かなりこの10年20年目覚目玉のように ですねもうどんどんどんどんあのうん色々 広げてあの読んでいるんだけれども先生は このいわゆる歴史学の専門家として我々 このえ土子の人間に例えばえ一言 アドバイスしていたくとすればこの歴史の 事実ってのはどうあの確かめればいいの かっていうの例えば何かアドバイスあれば いただきたいいやいやあのこれは歴史学 特に中国の歴史学を考える時にはとても 大事なことなんですねあの私が非常に はっきり覚えてるのはあのえ私は非常に 尊敬してる中国のあの歴史家近代史の歴史 家にですね某会見さんという人がですね あの店長の崩壊というですね非常にこの亜 戦争当時の中国の歴史をう大変の名所を 書かれた先生なんです日本語にも役あるん ですか日本語はないかもしれないね非常に こういい著作なんですがその先生があのえ どこかのあの多分社会科学院のこの歴史学 の機関心にですねえ実の再建という大変 あのまいい論文を書かれました論文と言い ますがこく短いエッセのようなものなん ですがうんつまりあの80年代から90 年代にかけて中国の歴史学の課題は何かと いうとえ実っていうのは歴史の事実歴史の 事実の再建という風にえその某先生ですね あの言うんですがつまり歴史事実は本来は え長いこう歴史研究の中ですでにあの少し ずつ救命されてきたものなはずなんです けどもここに来て歴史上の事実を再建する ということを言い出すわけですよねつまり 事実は完全に崩れていたということで あうんありますねですからあのえ政治的な あの必要に応じて歴史は書き直されて修正 されてまそういう風な状況になっていた わけですから事実を再建しないといけない で事実を再建するというのはもう歴史を 書き直すという意味なんですねうんです から80年代以降は中国は近代史をもう 1度書き直さなければならないほどあの 事実そのものがですねえ歪曲されてきたと いう認識だという風に思いますねまそう いう意味では本当の意味の中国の歴史学は あ文化大学の前文化大革命の前にはそれ なりにやったんですけどもえその後はあの 80年代以降再建されたわけですがそう いう意味ではあの本当のえあの事実かどう かこれを確認すると言いますかそれはあ 非常に難しいことなんですむしろ科学あの 歴史家がやる仕事なんですけどもまあの 一般 の方が歴史の事実かどうかを確認するのは やっぱりいいあの歴史家が書かれた歴史書 これを読むということが大事なんじゃない かなという風に思いますああの僕はね特々 日本人の方とあの食事する時よく言われる んだけど今の日本の私はね日本でその小中 校出てないもんとか分からないんだけれど もただ周りの日本人の方がですね教えて くれるのがいや日本のそのうんあの中学校 高校でもですね歴史の中でえきちんと近代 史なんかあのかなり抜けてるのがたくさん あると言われるんだけれどもそうすると この実をうんきちんと教えないってのは 中国だけの現象ではないはいですかはい あの日本のただ日本の教科省と中国の教科 書を読み比べてみますとうんえ日本の教科 省はむしろ事実関係の羅列のような書き方 をしていますねあああの何月何日に何が あったのかとかですねもちろんま歴史の脈 流れというのは書かれていますけれどもえ ほとんど事実関係の確認が非常に教科書に 多く書かれていましてそれてそれと比べて 中国の教科書はえむしろその1つの事実の 背後にあるえ大きなこの意味が何なのかと かえそれを学ぶことによってどういうもの をですね我々はあの考うんなければなら ないのかとかですねそういったようなあの むしろ歴史事実を通して何かを学ぶという ところに点が置かれているように思います よねまそういう意味ではあのえ特に日本の 歴史教科書はかなり歴史的に検証してえ 事実であるということをしっかりと確認し たもの出なければなかなか教科書には書け ないうんというような特徴がありますので ただそれを知っててんま何になるのかと いうことに関してはその教育の部分はえ むしろ中国の方が多くあって日本の方が 若干足りないのかなというそういう印象は ありますけどねありがとうございますあの えちょうど霧のいいところなのであの前半 はここまでとさしていただいてあの一旦 休憩えしてからですねまた後半あのえ対談 続けたいという風に思います

今回登場する講師二名は、いずれも1980年代日本へ留学し、そのまま日本に残って仕事と生活を続けている。日本での生活をどのように振り返るのか?
現在の中国と80年代の中国は比較できないほど、大きく変化している。過去から現在、日本に来る中国人が日本をみる目はどのように変化をしているのだろうか。
  また、両名が中国を出国した時、中国の変化を展望できなかったはずだが、
 今の中国を見て何を感じるのだろうか。現在の中国の姿は偶然か必然か?
 両名にとって今後の中国のあるべき形と姿とは如何なるものか。日中関係の展望や提言もあわせて語る。

22 Comments

  1. 語るに落ちる?語るにあらず?なにを言いたいんだろう?諸悪の根源からの結果ではないか考えが甘過ぎるのではないでしょうか?こういった行動が仕事と思っていたとしたらアホとしか言いようがない!もうDSが音を立てて崩壊してきているよ

  2. 日本にもいろんな日本人いるし、ネットでひとくくりにするバカが多い。世界中もそう。アメリカ人は、とかフランス人は、とか。お二人はとてもグッドですね。どこの国も政治、軍部は問題。昔から変わらないのが残念ですね。むしろ過激になってます。

  3. 劉さんの、史実の羅列は同意です。韓国高校教科書韓国史(和訳)を読んだ事が有ります。結論が重点で記述して有りますが、史実が少ないので起承転結の結だけの感が有り、どうやって検証するのかが疑問でした。天安門事件は、暴動だとだけが書いてあるのでしょうか。高校迄は、史実の羅列で良く、肉付けはその後の自学研鑽と思います。

  4. 劉傑先生のおっしゃる日本の中学高校の歴史科目は事実の羅列である、と私も全く同感です。歴史には全く興味がわきませんでした。後年(勿論社会人になってから)事実の背景、或いはその時の民衆の考えていた事などを知り、歴史とはこんなに面白い学課だったのかと、愕然とした記憶があります。

  5. 「経済学を学びに来日したら、日本の経済学の授業が、マルクス経済学(社会主義経済学)だった」というのが、面白かったです。経済学にはマル経(マルクス経済学)と、近経(近代経済学)とかがありますが、私が大学生だった80年代初めの頃に初め、まだマル経を教える大学は多かったように思います。左に傾いている学校が多かったのですね。 ソ連の崩壊と共に、マル経を教える学校も少なくなっていったように思います。

  6. 当方、先祖は姫氏の流れで、九州から出雲、姫路、京都、越前へと流れ着いた元秦人かなと思っていますが、嫁を中原から貰って嬉しいです。今後仲良くなると良いですね。

  7. チュウカ人は 肉親、親類、友人 など人質に取られているので共産党に逆らえず  本当の事は 言えない悲しい民族である。。

  8. 理解并尊重你们身在国外的一些不得已!但是很反感你俩中间的一个,为了吃饭而对自己的母国抱有恶意

  9. 日本に来て、搾取とは何か、と講義が始まった柯先生のエピソードは面白かったです。時代ですね(今の日本の大学の事はわかりませんが。。)

  10. 世界中の人たちが互いを尊重し合い、互いに助け会える環境を目指せる社会が整うのには時間がかなりかかるでしょうが、自分さえ良ければいい、人の物、アイデアを盗む、妬む、憎む、などの感情を持ったり、植え付けたり、しない様に、個人では実行できるはずです。近隣の国が、人が、お互いに尊重し合える関係になると良いですね。

  11. 埼玉県川口市で昨年7月、クルド人約100人が市立病院周辺に殺到した騒動のきっかけとなった殺人未遂事件で逮捕されたクルド人男性(25)が強制送還後、今年5月に再入国し、いったん川口市内に滞在した後、再び強制送還されていたことが19日分かった。2度目の入国の際は入管施設で「帰りたくない」と叫んで暴れるなどし、送還時にはクルド人仲間ら約20人が集まる騒ぎもあったという.

    今月10日に施行された改正入管難民法は、難民認定申請中の強制送還停止を原則2回までに制限するなどしており、入管当局による法の厳正な運用が焦点となっている。入管関係者によると、男性は2013年にトルコから短期滞在の査証(ビザ)免除措置を利用して来日。2回目の難民認定申請中だった昨年7月、クルド人同士のけんかに関与し他の6人とともに殺人未遂容疑で逮捕された。さいたま地検は9月、7人全員を不起訴処分とし、男性は11月に強制送還の処分を受け自主的に帰国したという。ところが、今年5月9日、男性を支援する日本人弁護士から東京出入国在留管理局(東京入管)に対し、男性の上陸許可を求める要望書が出され、男性は同じ日にビザ免除措置を利用して羽田空港へ到着した。要望書は「殺人未遂事件で負傷した右腕の治療とリハビリを日本で行いたい」「病院の未払い金200万円を支払いたい」などとし、滞在期間を1カ月としていたという。

    ところが、実際の所持金は7千円しかなく、東京入管が上陸拒否したところ、男性は床に寝そべり「帰りたくない」「救急車を呼べ」などと叫んだため、羽田空港内の入管施設へ収容した。男性はさらに、施設内で食事を拒み、脱水や低血糖の症状が出たことから、東京入管は施設への収容を一時的に解く仮放免を決定、男性は川口市内で再び生活することになった。ところが、東京入管が病院に問い合わせたところ、「治療は不要」との回答だったため、あらためて強制送還手続きを進めることになったという。

    男性は今月5日、仮放免者に義務づけられた手続きとして東京入管へ出頭。その場で強制送還を告げられ、同日夜のトルコ航空イスタンブール便に乗せられて送還された。入国警備官が付き添うなどし、帰国費用数百万円は税金を原資とする国費で賄われた。

    その夜、川口市内などに住む仲間のクルド人ら約20人が東京入管を訪れ、強制送還に抗議する騒ぎが発生、駆けつけた警察の注意で解散したという。

    男性は「すぐにまた来る」と話しており、日本に滞在する男性の家族も「すぐに再来日させてやる。弁護士やマスコミを連れてくる」などと話していたという。

  12. 日本は戦後、アメリカの植民地のようになっている。伝統的な価値観が捨てさせられ、いろんなことが歪曲されている。

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