中世矢野荘の歴史 東寺百合文書に登場する荘園の開発から解体まで 【荘園都市あいおい矢野荘】

12月2日にえ講演会をしたパープを 一通り最後までやってみたいと思い ますテーマは少年都市あいやの賞です今 映っている風景はI大橋から映した風景 ですがこの辺りが矢野シの裏 ですここに小さな山がありますが これ明治の初めぐらいまでは海に浮かぶ島 で大島と言いますここに鎌倉時代地島海老 な市の館がありましたこの奥に矢野城の 面具の積み出し校であるナ校があり ますでこの海はアマナだから56m入っ てるんですかねでこの海にの川 がうつほ船で流れてきてこの写真のもう 少し左側ですがそこに流れ着いて甘い人が その船を開けてみると鳩の川が決して神に なったということが名宿集に書いてあると まそういう話も含め て一通り 中世大やから同次量矢野省への変遷をお 話しし ますあい柳野賞 は山陽新幹線で行きます と京新大阪新神戸西明石姫路あい とここにあります山陽高速道路ではタ西 インターの少し西にあります 山陽新幹線の駅はウブにありますが矢野商 で最もいい田端が広がっていたのは北部の 方の総省と呼ばれていた地域でし た愛の章 って小宮神社新光の世界で見ていきますと 三層になっていることがわかります 一番下にあるのは旗野川勝の大崎神社です 古代この地域は旗が開発してそして旗の外 されている旗の川をお祭りしている大崎 神社があちこちにあり ますま千川から思想にかけて旗の川を祭る 大崎神社てさんあるんですねで愛市内にも あちこちにやってで愛の1番高い山美濃さ の鉄平には旗の乾かをしんで旗の内が早見 したという平安時代9世に立てたという ですね山岳寺院の箕さ具F教授があり ますその後この辺りは少年になってでその 頃に 矢野シの珍珠とし て若野の天人さんが多分作られたん でしょうそれからもう1つその馬子をお 祭りする馬子大明人があり ますその上 に鎌倉時代の 海老名が鎌倉から持ってきた3つのお宮が あり ますダバの八幡さんと朝日の弁天さんと王 の天人さんですとこのようにまず1番仮装 に鳩の乾かの進行があってその上 に宿城になった頃に京都から入ってきたと 思われる 天板神社の進行があってそして鎌倉時代に 二島海老名が持ち込んできた信仰があると そういう三層構造 に愛の神社体系はなっているんです ねあとね戦国時代にここに上土新州 のお寺が立てられていきます今この辺りは ねハリマモントと言われる上土真州の モントが多いところ でそこまで考えると4層構造になっている んですねこの地域 はで愛よいやの章と言ってますけどこの 矢野という地名は旗の川が高取峠から矢を いたところ矢がこうピューンと飛んだんで この矢が飛んだところをやのっていうん ですね元々ま8個の野原があったところ から蜂のて書いてやのと呼んでいたのを旗 の川かが矢をいたという伝承にちんでいや のというようになり ますで肌の川GODがあいに漂着したって そんなん何書いてあるんや言うとですね コンパル前築の名宿集に書いてあるん ですコンパル前築はゼア元木の娘向こ ですゼアの後継の完全元この人早く なくなったん で事実上ゼ元の合計者は娘向このコンパル 築 です元が書いた脳の伝が風家電コンパル全 築が書いた脳の秘伝書が名宿集 です風殿にも名宿州にも秦川が赤軍に漂着 したという話があります風家電の方は今赤 の佐市というところに二川は漂着した とコンパルコンパル前築の名宿州の方 は張間の国難波石手の裏現在の愛のナ勝手 の大崎御崎白崎の花そこに漂着した と書いてあり ますで難波借手のたいうのは現在の愛用市 のペロン城の近くで大崎神社ががあり ますで少し前に愛歴史研究会が鳩の川かつ 万州表着説のことというこういう石碑を 立てまし たこれ名宿集です 私この名宿集読みたくてです ねえ名宿集漢字金まじり分なんですけど 石太郎に全部打ち込んで読みやすくしまし たこの本ね結構売れるんですね うん名宿集の原文 ですこの中に鳩の川があいに流れ着いたと いうことが書いてありますここですね張の 国難波爵の裏 どこにあるのかなうん行を子孫に譲りて行 を背きうつほ船に乗り再会に浮かび玉石 が張間の国難波借しの裏による天日と船を あげてみるに決して神となりたもう とでこれだ読むの大変なんでこういう風に 読みやすくしてルピも振ったの がこの本 ですそんなに難しい文章ではないのでね 時間に読んでみたらいいのではないかと 思い ますでコンパル建築の名宿集は室町ダに 書かれたものでじゃあ本当に里川 が赤軍まサか愛の借しの裏かはま別にして 本当に赤軍に流れ着いたんかと言うとです ねそんなことは事実としてはありませ ん鳩川研究の歴史の方の第一任 者井上光先生は旗川 が赤軍にやってきたということは事実とし ては ない ただなぜ赤軍に鳩野川勝の創作伝承が たくさん作られたのかこれについては興味 深いテーマであると書かれていますねま この辺りが歴史学的に見た型の川は赤具に やってきたのか事実としてはない だと思い ますところがね梅原た先生 が私は赤軍にはかがやってきたそれはさし だでね直感したってですね書いてあって ですねまあのね大梅原た先生が書いてるん だから川は軍にやってきたんだてねま考え してもいますよねうん原先生もねちょっと 罪なことされましたねいや梅原先生はそれ ていいんですよあの先生は哲学の先生なん で ね事実かどうかに関係なくね直感したで いいんですよね うん私眼科でした のそれ実証できるんかって言われてね君が 思っただけじゃだめなんだよ それ本当 に証明できるんですかエビデンスあるん ですかって言われるのがしかでそんなない ので実として旗の川が愛よいにある赤に やってきたことはありませんただ なぜそういう伝承 がよい赤旧赤群ですねにたくさんあるのか についてはねこれは面白いテーマなんで そこを考えればいいんですけどねあ川が あや悪にやってきたんですかってとこで 止まっちゃう人が多いのでねうんと思い ますね うんさて有の国難波借手の裏によですけど あ そもそも旗野川がどうしてう船に乗っ て再会に流れ出すのかっていう話ですけど ね 旗の川は神が人間に姿を変えた人なんです 継承の人って言い ます化粧の人 は神です から人間のまま死んではいけないですねだ から姿を消すわけ ですで大阪の難波から出発し て難波にやってき ますセツの難波から有馬の難波に漂着する んですねで次になんで借しかと言うとです けども借人ってのがあるんです中りついた と設定せてる場所がね合いの難波借しの裏 とかね赤しのさ星とかね借しとか錯とかね なってんのは借人信仰に基づいてい ますここが借しの裏 です今この辺りってねイオンタウンになっ ててここにペロン城があるんですけども この写真は今から100年ぐらい前の写真 です これ鍋先って言うん ですここが借しの裏大酒御崎ですこの 向こう側も海だったんですねで海と海大名 に細長くつき出したみさやったんですねね ここに里の川かは流れ着いて天人が船を あげてみるととの川が決して神になったと でここパワースポットなんですけどねで今 ここにペロン城があるんですけどね ちょうどペロン城の東側の駐車場になっ てる辺りですね大崎神社がこの辺にあり ますこの地形今でも残ってです ねところが ねペロ城の駐車場にここ旗の川が決して神 になったパスポートなんですよというね そういう表時 はありませんあいてねこういうね歴史や 文化に関してはね奥ゆかしいところがあっ て ねやってきた人にここ旗の川が神になった ところなんですよまそういうことはね アピールしないんですこの町は ねあそれから肌の川がなぜ ゼ本教の風家電とかコンパル全築の名宿集 に登場してくるかというと旗の活って芸能 の神でもあるんです ね芸能人の神様なんですだから室町時代の 芸能の第一任者であっ たゼアとかコンパルエジが若の語を書く わけですねま元々はコンパルザに伝わった 物語だそうでから旗のカオカについては コンパル電築の書いてる方がオリジナルで はないかというまそういう話もありますが まいずれにすよねあいであ赤であ具に来た ことはま伝承ですので ねどっちやねんて 赤かゆいかでねあんまり次々でも意味が ないんですね うんさて果しなんですが私の本拠地は京都 の不さと渦さにありましたでうさの方が今 松尾大社になってるのかなそれから深さの 方が不いりになってい ます果たして トラジでね新しい技術を日本に持ち込んで きましたのでで技術系の神様として信仰さ れているんです ね特に伏見稲なんかねお金も受けてすって やってますけどねうん元々そうやっ て新しい技術を持って産業を発展させて いきましょうというねそういう人たちが果 なんです でさっき大酒神社って言いました が大酒神社ってね字が2つあっ て大きなお酒という書き方 とまこの字は色々ありますけどねこう 避けるというでこっちはね肖像とか量産と かねそういう生産技術の方から行きますと この大崎神社という時になりますねこちら はねこれ柵というのはあの土木技術です 大地をさいて開発していくわけですねそう いう開発土地の開発いう王で使う時は こっちの字を使いますねでいずいずれに せよ大阪人者という風に呼びます で旗の川勝が流れ着いたのはコンパル全築 の名宿集によればこの辺りゼ本清の家電書 によればこの辺りです ねである日旗の川が高取峠から矢をいます と矢がビューンと飛んだの でここを矢の田にでこの辺りを宿のしと いうようになりました で美さんで相の北の方にある1番高い山な んです けどここにねお寺が作られたの は平安時代に旗の内が旗の川としんで立て たんですけども宗教的にはどういう意味が あると意味があるかというとこれ名に書い てあるんですけど旗の活は北極性なんです ね世界の中心なん ですだから愛用市の1番き1番高いとこに ねお寺を作る とということなのか なそれから名宿集に書いてあるのはね芸能 とは何か脳とは何かなんですけどね脳と いうのは異界2つの世界 夢の世界と現実の世界の間で転換がるこう 2つの世界が入れ替わっていくんですね うんそこを表現するのが芸術であるという 風 にコンパル電築は書いてい ますで美さん から南側を見ますとね ここにい1が見え ます美さんからずっと見てこう見える ところこれが矢の正なんです ねこの辺りに造船書のねクレーンが見え ます牡のいも見えますねこの山感状三条 って言います1番上にね中世の山広があり ます 遠くに見えてる霞んでるのこれエジです ハマナです ねこういう風 にイ川と千川 とエジマの間にこう囲まれてるここね プランクトンが 多くだから牡が大きく育つんです ね腹教授です標高500mさんの山頂に あり ます本道は観音道 です右側が大崎銀座鳩の川勝をお祭りして います左側は弁天車 ですで本尊は観音様でその両側に弁天さん と大酒神社神社 がお寺と神社が一緒に あるこれはね今の人たちはね不思議な感じ がしますがこれが日本 の本来の姿なんですね新物集合本地衰弱説 に基づいて法統が日本に現れる時は神の形 を取ると新物は一体なんだこれが日本の 伝統的な考え方でした本来の考え方でした ところがね明治政府がね神と仏を分けろと か言ったので ね神と仏を無理やり分離しちゃったんです けど ねなんか私たちは日本のね 伝統本来の考え方を誤解しちゃってるとか うまく伝わてないんです ね伝統が名政府によってぶち切られて しまったわけですところ がこのお寺はですねま山頂にあったことも ある し矢野の人たちがね仏教に 関する信仰心が強かったこともあっ て本来の姿を守り続けることができまし たと言ってもねこのお寺もね色々浮い天辺 があるんです立てた時は赤軍事の旗の内が 建てましたその 後矢野城の頃当時が矢野省の漁師になった 頃はこれ当事用になったんです ねでその 後美沢村が江戸時代にできてでミサ村の人 たちが山を降りてしまっ てエキスポ70の頃ですのちょっと前 ぐらいかな東京オリンピックから大阪万博 頃 に高度在成長期村の人たちはですね山を 降りて しまっこのお寺は荒れはてかけてたんです が大阪の特殊科が大臣世なあかんという ことでをじ てお寺及び神社を再建しましたでその方の ご子孫が この具FAM教授を守られてい ます小寺 の東北側かな 奇問にあたるところに三納権源があり ます三納権源があ るっていうことは年代ですね永山遠慮寺の 守護心が冷え退者ですので ねてことは具BEGIN教授は元々天台賞 だったということですか ねその後今信言に変わってるんです がま当時がここを領有した頃に天台から 信言に変わったんですかね うん犬塚 です鎌倉時代のものとされてます ねで犬塚ってなんで犬が出てくるかと言う と旗野川が美さんで狩をしている時に旗の 川を狙う大蛇がおってで旗の川が連れてた 犬が大蛇と戦っ て蛇も犬もなくなってしまうんです ね犬2匹だったかなで旗の川勝はそれを 悲しんで持っていた弓をね折って3本の 外場を立ててやったんです蛇と犬と犬かね でこの辺り3本外場っって言うんです ねでところでこの犬塚なんですけどもま ちょっと場所動いてます がこの辺りからです ね美のさ軍服教授へ登る道があるんです ここから上がっていくのが本来の箕さ具 Young教授への道 です今ねその道はねあれ果ててしまって 行けないことはないけどあんまりお勧めし ませんね で今ミノさに 登るハイキングコースはラガンの外からね 約2時間ぐらいかけて上がっていきます 近道と言うと北側のテクノの方から30分 でける道があるんですがまいずれにせよ車 は上がらないので歩いていかないといけ ない ですでこの五輪刀とほぼ同じ大きさのもの が腹教示にもあり ます鎌倉時代のものということ は当時がここをもらった頃に立てたのかな で当時が入ってくるとなる と1300年代の初めですからま鎌倉と 言って も末期になりますねが仮にこの他 犬塚が救世のものでで当時が立てたという 風に考えるならばこの犬塚 は鎌倉時代末期か南北町の頃のものになる ですかね うん後ろに綺麗な坂木があるでしょうん これ農家の桜でね有名な桜のですけど ね大きな木だったんですけどね折れちゃっ て今根元から 細い目が吹いてねまこれぐらいまで綺麗に なっていますね [音楽] うんで美さんへ登る今ハイキングコースに なっている方を の里有留渓谷って言うんですけどもその 有留渓谷 に積物があり ますまエベンとエソが刻んだとされてます がまエベンエソと言と後来からやってきた 仏教を伝えた人で小徳大使の頃になります がこれ実証的にはねやぱ地図性のものだと されていますね そうするとやっぱり当時 がこの地域を支配した頃に作ったもんです かね うんまそういうこともまだ研究は進んでい ませ んただねエベンエソが刻んだということで この地域 ってそがの馬子がやってきたとかねエベン がやってきたとかまそういう小徳大使の頃 の伝承がたくさんありますねあ旗野川も 小徳大使の四天皇の1人ですから ねでここから矢野翔の話に移り ます中世は少年の時代 です中世とは何か勝手はね武士の時代って 言われてたんです けど平安時代はクで鎌倉時代から武や でま分かりやすくばそういう風にね言う人 もいるんです けど武とねくて一緒やんとままとめて言え ば貴族 です宗源の寄りとだっってね15位げから スタートした貴族ですのでねタの清も貴族 です武下と区ってそんなに区する意味が ないんですねってことも分かってきて じゃあ中世と古代ってどこが違うのという こと で今 は長遠の時代が中世だ とでいつ始まるのかと言うと五三条天皇の 少年整理でここから中世は始まって豊富 秀義の対抗検地で少年の時代つまり中世は 終わると最近の教科書はそういう書け方を しています ね御三条天皇の少年整令でなんで初演の 事態が始まるの少年整理したら消炎減るん ちゃうと錯覚しがちですが違うんです五三 条天皇はです ね自分が天皇になった時に ね5書が燃えてしもとったん です対極点かなうん天皇即位式典する大 ホールがね燃えちゃってたんですでこれね 立て直そうちわけで ね臨時課税だ税金かけようとしたん ですところがね 小さな少年がたくさんできとってねこれ いかん と全国から一日に課税するためにどれが 少年でどれが考量で年の負担者誰やねん税 の負担者は誰だっていうことをねはっきり させろていうのが少年整理なんで少年整理 令なんです ねでねその消炎性令をに基づいて少年を 審査してこれ丸これペケやってた頃にね五 令政天皇が寄進した土地を藤原の寄り道 のみこっちかなカバがですね申請してき た少年の書類があったんですこれ ね実 は記録主演研究書の審査のルールによれば ペケなんですけど ね天皇が寄進して関白が出してきたょよね ペケになんかできへんわねそんなことし たらその審査感ねどんな目にあいますか ね で仕方がないのでこの書類は審査しない ことにしよう審査しなければ不合なりませ からねってことは合格になったんですそれ 見てあそっか少年 って既読省en原型者よりもより強い権力 者が作れ ば結局不許可にはならへんのや ということが分かったんですじゃあ欲小園 研kasしよりももっと強い権力って誰 さって言われるとね 1王家ま当時天皇家のこと王家って言うん です ね王家でま天皇がねまさかね自分でやるけ にいかんからね上皇と かそう いう王家の中の天皇でない人がね少年作る んですあと石関 家そういう強力な権力者が上から主演を 作っていくという時代がやってきます そして鳥羽長子の頃に少年っていっぱい 作られるんです ね矢野シも飛ば女皇が作った少年ですさて 小円をね作るには ね種がいるんですマジックでも種がある でしょ何にもないところにいきなりねここ 正員にするんだというわけにはいかないん です最初に自分が持ってる土地がてでここ 初演にするていう形から主演が始まるん です ねで野省の元になった土地は久富のほと いう土地でしたでは久富のほとは何かこれ は1075年の開発総称文助という文助に よってわかり ます当時号門上の中に入っているの開発 総称文助 です赤軍事の旗のため時が久富の方という のを開発したいので国画で許可をください というそういう書類ですでここにその範囲 が書いてありますではここに書いてある この久富の方の範囲とは 何か久富の方はこの辺りです ね愛用石 って大きく分けると水計が2つに分かれて い ますこの山ねこの山 を境にし てこっちの水は千川へ流れていき ますこの山の南側の水はあへ流れていき ますワの方に流れていく川は2つあって お国側と佐川と言いますそのお国側と佐側 の 流域これが久の方であると考えられてい ますで 現在里見の方があったところは新幹線の 愛雄液を中心とした地域になっています今 ね愛市の中心ってこの辺りにあるんです がこの辺りってそんなにね土地が広いわけ ではないし水も豊かにあるわけではないし だから開発が遅れてたんです ねでそれを頭のため時がここ開発して 田んぼが増えたら年増えますよっ て国画に言って許可を取った ですで今映ってるところ相高校ですね新 幹線相駅ですこの辺りに愛1があってわ この辺りに流れ着くんですねこずっっと 流れてきてねでここ矢野商のウブと言い ます新幹線相駅って矢野商の裏の中にある ん です便利でしょう省中に新幹線があるん ですねだからね研究者の先生方には大変 好評でねなんせなやのシはな便利なんや新 幹線でビューンと言ってなで降りたらそこ もう少年やからなと最も不思議なの は新幹線青降りてこの辺にいる人ねに柳省 どこですかって聞いてもねうんて人多い でしょうねうんでちょっと知ってる人やと 矢野って北の方ですよって教えてくれるん ですけどね うんでもここが矢野やということはねもう 忘れちゃったんですねあの人たちは ねでかこ愛内があるんですけどまそこで 聞いても ね知ってるのかな案内する人ねあそもそも 愛吉が発行している観光案内にもこの観光 協会が出してる観光案内にもね矢野省の矢 も出てきませんからねうんだからね矢野城 ってね不思議なところで ねすっごく有名な少年なの に新幹線の駅降りて最寄駅が新幹線の駅な のにそこ降りてもねそこの観光案のしに あるパンフレットねいくら見たって矢野賞 にはたどりつけないんですいやもう たどり着いてるんですけどねうんあなたの いるところは能賞なんですけどねでもそこ 能賞やって書いてあらへんからねなから わかんないですでも大学の先生方はねま 知ってますから ね新幹線降りてデタサイクルなんかで行く 方多いみたいですねうんあと梅駅まで行っ てねでレンタサイクルで柳城の中を目黒 先生もれます ねその久富の方ですねうんここをですね 開発した旗のため時の土地なんですがそれ は一体どうなったの か秦のため時は久とびの方を開発した後 有馬の神藤原の秋末に寄進しました藤の 秋末は白川女皇の謹慎でし たすごいお金持ちだったそう ですでもこれCですからね酸味空行語には なれなかったんですねうんなんでて聞い たらこう勘文がね苦手でぱね当時の ね貴族社会では監視がねちゃんと作れない とあかんのです ね正木支部わも監視もバチバチにできた らしいですけど ねでこのアキスにはです ね孫さんがいましたで久富の方は秋から長 を通じて孫娘の徳さんに相続されますさて この徳さん鳥羽天皇が天皇をストに譲って で上皇になってからの愛人です長期ですね でお子さんが生まれました で飛ば条 こストックをやめさせてこのへ天皇を天皇 のくらにつけ ますこのこの絵天皇 がなくなってしまった 結果とば王家の後月は誰かということを 巡っ てストックとゴが争う方の欄が起きるん です本来は飛ば方の後月は このになるはずやったんですねこの及び その子孫が鳥羽大家を継ぐはずやったん ですで息子さんが天皇になりましたので お母さんは工合になり ますこの天皇がまだ生まれる前えっと長女 の八条員少子内心のが生まれた頃の話です が徳さんが鳥羽に相談しします私おじい ちゃんからもらった土地 がハマの国にあるらしいんやけどま もちろん行ったこととかないでしょう ね京都の貴族があの国なんかやってきませ んからね明石ぐらいまでは来るそうです 明石とか須とかねうん現地物語でもヒカル の君ヒカルの君は明ぐらいまで来てます からねあそこまで都会なんです都市県なん ですではまというのはもう山陽児ですから ね都の貴族 は仕事でもなければやってきませんだから ま徳さんもIに来たことなんかない でしょうけどまおじいちゃんからもらった 途があるとでこれ初演にしてて言ったら 鳥羽女皇が任せろ 私の力を持ってすればですね少年の1つ 作るぐらい何でもないことや ととば王です美服もい ですビモ員が私の土地所員にして分かった 俺に 任せろで飛ば女皇 は部下を読んで 少年作るで とついて はいい初演にしてね忖度して ねで言わないでしょうね言わなくてもね部 は分かりまし た年がたくさん入ってくる少年を作り ましょうで久富の方というのは新幹線の 周りですから新幹線愛駅の周りでですから この辺りなんですでこの辺りでさっきも 言いましたけどあんまりいいところでは ないのでだから開発が遅れていてあるいは 開発したけどまた荒れ晴れてしまっていて で旗のため時が再開発したんですよねと いうそんなにですね農業に適したところで はないんですではこの近で農業に適した とこはどこにあるかという と人山こいて川の方に水が流れて いく総省と言われている地域こちらがいい とこなんです ね南側が ウブ北側が総省 ですでここはねすごくいい田んぼがあるの で常理性がきちっと敷かれていますでこ理 性が敷かれているこのE地域 を取り込みましょう と開発したのここですよでこれを寄進され たらこれをネタにして周りのいい土地を ガバっと取り込んで少年を作るん ですここを開発したのにここを死にされた のになんで国画 国の土地を取り込めてしまうのかってこと はね今の高校の教科書ではね説明できない んです今の高校の教科書には寄神地系商え というものが出てきますが寄神地系商えだ と開発量子が開発した土地が開発領主が 自分のものにしていて名記上寄進寄進して いくということになってますよねだったら 少年はここになるはずですよねなんで こんな国画をね取り込めてしまうのそれは 開発領主が出演にするわけではなくて もっと強大な権力鳥羽条って当時日本の トップの人ですからね日本のトップの人が 作るから国画量を省の中に入れてしまう ことができるん ですこんな 領域型少年と言って少年は鳥羽条項のよう な権力者が上から 作るで開発した土地を消炎にするのでは なくそれをネタにして周りのいいとこを ガバっと取り込んで消炎に するということはねまだね高校の教科書に は書いてないんですねだから私ねそうやっ て少年が作られている行くということをね 知らなかった頃高校日本市の知識だけでね この愛市のね歴史私は愛生まれなんでね あいの歴史を調べていた頃ねもう全然 分からへんかったんなんでここ開発したら これが初中に入るのというねでもねあいよ いっ て研究者がいっぱいやってくるんですよね あなんで研究者がいっぱいやってくるかと 言うと ここ室町時代は当時が持っとったんです そうすると当時って ね小円を持ってた頃のね資料をね捨てない で置いてたんですでそれを香川前だけかな が綺麗に整理して100個の箱に入れたん です当時100門所って言いますで当時 門上の中で1番たくさん資料が残ってるの が矢野賞なんですねあそもそもね少年って ね新幹線で見に行くってさっき言いました けどね少年ま当時日本の約6割を占めて ましたから中世のね少年なんか日本所 どっこにでもあるん ですじゃあなぜですねわざわざね 矢野省まで研究心にやってくるかと言うと 資料が残っているところがあんまりないん です ね何せ中世の資料ですから ね少年で資料が残っているとこって ねまほぼね当時105 門上に限られるんですねそうすると当時が 持ってた少年 限定ってことになっ て高校日本市でよく出てくるね日護の国 かこ義将あれも当時が思っとったん ですで当時が持っていた商品の中で規模が 1番大きく てで資料が1番たくさん残ってい てで今新幹線でピューンと行けるという 便利なのはね宿のシなん ですそれともう1つね 当時105問上 ね1980年代 に愛医師が愛士を作る時に勝にしたん ですこれがまた便利で ねいちいち当時百音文所の原文読まなくて もとりあえず愛市の1番後ろ に愛用一士矢野賞に関するところはね活字 になってるからそれざーっと読んででうん ここのおかしいなと思うとこ現場当たれば いいわけですよ ね愛師ってねあんまりね歴史文化に力を 入れる街ではないんですがあの愛市の1番 後ろあれは ねとっても高く評価されているんですね あそこだけ欲しいわていうね大学の先生 いっぱいいるんですね I今でも大量に在庫あるらしいですよあ それでその勝人にしたね誰がしたんですか ってね思って たら伊藤敏和先生今ね少年研究では日本の トップを走っておるね先生の1人です ねとね先生もやってこられるんです賞にね あで私ね別に商品の研究者でもなんでも ないんですけど ねこの辺り歩き回ってねでうんわからへん ななんでここを初演にしたらあここをね 初演にしたらねここが初演になるんやて 分からんなとかねぼやいたようなね文章を 書いてたらねいやああいで少年なんか脅威 持ってる人がおるんやってねでホーム ページ見て連絡してくださる先生がおって ね でそういうあいうにやってくる先生とね こう一緒にこう歩いてねでいっぱい質問し まくってねこと10年もやってるとね だんだん詳しくなってくるんですよねだ から私こ耳学問です大学で勉強したわけで もなんでもなくて ねで伊藤先生 にお会いした時にね伊藤先生があ愛士のな 1番後ろにあるあの矢野ののしの 文女なあれな兄弟の大学院の頃に私は4ら やてねあそうですかて ね氏の1番ミに書いて ある宿の文助って ね兄弟の大学院の人たちを中心に直しあの 今活化したんですねうんでそれを使って 矢野の研究はめちゃめちゃ進んだでてね 教えてくれたのが今別府大学の赤松日明 先生で ね赤松先生わの大学院の博士家庭の頃にね あよにやってき て私話したことあってで私あの先生にあの 赤松先生にね少年って何かって教えて もらってでその時 になんでここ 初演にしようとしたらここも遠に 取り込めるんですかって聞いたら ね若本先生が優しくねあ今ね高校のね 日本史の教科書に書いてある知識ではこれ は理解できないけれども今少年の世界では 小園研究の世界で は寄進地系商えはねあまり使わなくて領域 型省と言っ てインとか石間家とかそういう強力な権力 者 がガバっと少年作るんですよてして くださって少年は上級権力者によって作ら れるんですあせやったんや知らんかっ た高校でね日本酒押してたこともあります けどね知らんかったわうん高校生諸君には 悪いことしたわでもしょうがないねわから へんかったからねうんでも赤間先生に長遠 とはこうして作られるっていうね話を聞い てで自分の疑問が解けたのであこの先生の 言ってることは正しいわてね思いましたね 今初演の本ねどんどん出てます けど近頃出ている初演の本はねみんなそう いう説明してますねまもなく高等学校の 教科書の説明もと思いますよ少年というの は五山条天皇の少年精霊の 後因や石関家のような上級権力者によって 上から作られていくんだそして恩家が両家 を両家が預かり所 をそして雲門や下しを上から任命していく んだとという風に説明はねうん変わると 思います ね魔が成立した後ですねどのように本景色 オーナーが変わっていったかという表を 作ってみまし たABCこれが相続した順番を示してい ますで数字は相続された都を示しています 最初のオーナーは美腹問員でしたで美腹問 員から娘の八乗員に相続されますあ天皇家 王家の財産はこのよう に娘のうち1人を独身のままにしておいて そしてその子に想させるんですね 天皇家石家というね名義ではなくて あくまで個人名義でで持っていくん ですで鳥羽女皇が集めた膨大な少年は長女 の八条員が相続しました八条院料と言い ますで八条員は持を有志にしていて持ちの 娘に相続させようとしたんです が3条の姫宮という八条員の証言を 受け継ぐはずだった人の方が先に亡くなっ てしまうんですねで八条員の元に正遠は 戻ってきてで八上員が亡くなった 後後葉女皇の娘春化問員に受け付れますで 瞬間問員から順徳天皇が受け継ぎます つまり五葉大家のものになったわけですね ところが上級の欄 で言葉条項は鎌幕府に敗れ去りますで一旦 王家が持っていた少年は鎌倉幕府が没収し ましたで没収した後鎌倉幕府は長底を 立て直し ます武器は長底やクをなくしてしまおうと いうそういう発想ではないんですねねク武 貴族たち は正しい調定の元で上帝を守っていくのが 勤めであると考えてい ます鎌倉バグが後葉条項をま倒したことに なるのかなあるいは五葉条項 が天皇あるいは長底の姿をですね逸脱とし たからこれはけないいうこと で長底を正しい姿に戻すこれが鎌倉幕府部 の役割であるとと彼らは考えているんです ねだ から長底を直し長底をなくしてしまうとか 天皇や条項をなくしてしまうとかそういう 発想はありませ んいかにして本来のあるべき姿 に戻すか とそれで 新しい王家を作らないといけないんです が王家って面白く て王家は2つ条件がいるん です指示されていることそれから王家の 人間である ことで王家の中でです ね後葉の兄がいたん ですこの人 安徳天皇の交代しで安徳 天皇ごクライン後葉これが兄弟なんです ねでゴタクラインは安徳天皇とともにダに 行っててでその時に五葉が天皇になって しまうん ですで帰ってきたダが帰ってきてね なんで弟が天皇なってんねんいましたのは 後川ですけど ね俺の方が年やでって言ったんです けどま結局諦めて出血してはったんですで 鎌倉幕府が言葉のお兄さんこの人を新しい 条項にしようとしましたけどねごたく ライン出血してはるでしょ で出血している人を天寧するのちょっとと いうこと で息子さんをまず天皇にしてご堀川天皇 ですねで五堀川天皇の父親を上皇にして 陰性をしてもらうことにしまし た五高クライ五堀川天皇の王家にも財産が いりますよねそこで後葉王家から没収した 少年を五高倉ゴ堀川この後頭に返し ますあその時に返しますけどえ自党を犯し てくださいねということになりました シンポジとって言い ますでゴタクライから娘のアカ門員続いて ご堀川の娘の室マインに相続されていき ます ところがですねこの四条店の1人息子さん やったんですけどもだから早く結婚して 子供作ってくださいねって王子作って くださいねてでやっとですね史上天皇 が大きくなって結婚してよし後次だって 思っ てる 矢先市上天皇ねいたずら盛りでねその いたずらが原因でなくなってしまうんです 自分がしかけた板に自分が引っかかったん です ねそれでこの五高倉ゴ堀川史上というこの 皇は断絶してしまい ますで鎌倉幕府 は次の天皇を誰にしようと順徳の方はもう 嫌やなとでで順徳の兄の土門この人は上級 のラの時に鎌倉幕府と戦うのはいかがな もんですかなんてことを ねえ言っておられましたので 土門天皇のご子孫これを新しい王家に しようと鎌国法条安時かながそういうこと 言っ てで後のが天皇この人を天皇に選び ますでサガからあゴサの次 に王家は五 不かなと五亀山の兄弟に分れ て両と手立の時代が始まります で大家の財産小円軍は2つありました1つ は鳥羽条皇が集めた少年八条飲料ですもう 1つ後川が集めた少年元々はね石関系が 集めて藤原の夜長が持ってた少年です方言 ノラで藤原の奈が負けましたので財産没収 されてそれをを元にしてゴジラ川が増やし ていったん ですでその 少年超行動量って言いますえ長行動僚は5 佐賀から5不格差天皇寿命院島の方 へ八条飲料は合作 から亀山条項に引き継がれます でゴサが天皇の頃持主は室町の頃ですかね 王家の代表はゴサの頃 に下地中文が行われてい ますで矢野賞 のオーナーは半分王半分自党になりました でここからは矢野の章と言っても死体中分 して 両家型王家の方に残った分の話になり ますで亀山条項は1305年に別名を何千 に寄進しまし た続いてゴダ条項が霊名を当時に進しまし たここで別名と霊名という言葉が出てき ますましたが別名と霊名とは 何か別名はここを指します現在の大ごと上 ですこれはねずっと前1167年まだトオ がね少年持ってた頃にビモ員がなくなって でビモ員のりのお寺があったんです換気 行員というでこのお寺の維持費を出すため に矢野の賞これ全部元々美問員が持ってい て8乗員が受け継いだ宿の賞ですがその うちこの部分を切り出してこれを換気行員 の維持に当てたんですこれ別名と言い ますでこの部分が後に何千事業になります ということで別名が何千時霊名のうち両方 が当時に寄進されまし たこして矢野章は自党のエなしが 半分残りを何千寺と当時が所有することに なりまし た大野城の中心満所はどこにあったかとと 言う と中と言われる地域にありました中という の は大子川と矢川に挟まれたところを言い ます今大川は流れが変わってるんですが この時代は大川と矢川はほぼ並行して流れ ていましたその間が中 でこの辺ですかねここの辺りにや賞の満所 が置かれていまし た矢川 です大川は今こう流れてます が中世は大川こういう風に流れていてこの 大川と矢川の間ここが中ですねでここに 満所がありました 上気のランの後八条飲料は一旦鎌バが没収 してで豪高倉員の後頭に返却するんですが その時に自党を置くと大家量にも自党を 置くということになってそれを進歩自党と 言いますで進歩自党として海老なが相模 からやってきました海老なが館を置いたの がこの大島ですね大島 城どうしてここにや置くかと言いますと その奥に長の港という小さな港があってで ここから柳野城の年や物資は京都に 運び出されていまし たで鎌倉時代になるとここでね位置が立っ てナの位置と言っ て種の年は ここでお金に変えてでお金を京都に送ると いう風に変わりますももね京都と ね合いでねコメの値段ちゃうんですよねで 京都の方が米の値段が上がると ね米のまま遅れって言うんですよね初演 領主はでも地元の方としてはこの段上がっ てるんやから 売ってお金に変えてね で値上がり益を自分が取ろうとするんです ねうんそういうことも当時105もちゃに 書いてあり ますぶ米の値段が変動すると物価の変動に よって 生じる値上がり益を京都の領主が取るのか 地元の連中が取るのかこれは大きな問題 だったみたいですね この大島なんですけど ね長い間ね人の手が加ってないんですから この地域 って手を加えないで置いでおくとこういう 木が生えてくるんですでね街のね真ん中に ねこういう自然 の森が残っているってね 有馬地方では姫路城の裏山姫山とねこの 大島でね ここ県の自然保護かなんかに指定されて いるんですね点でもこれ面白いところです ねで児童は年を集めて主演領主に納めると いう役割を持ってましたところが ね児童は鎌倉幕府の役人なん です人事権は鎌倉幕府が持ってるんですで 遠漁師のために年を集めて少年をあの年を ね京都に送るはずなんですけどね自党がね 年集めるんやけど京都に送らないで自分の ポケットに入れちゃうんだよね で少年領主と自党が揉め始めて日本中各地 で ね少年領主は幕府に抗議するんですけど あんたんとこが派遣してきた二島や けど年ちゃんと払わ へんでロハ単体に裁判が持ち込まれて横田 台はもう土地分けたらどうですかって 下地中文っていうんですねそういうことを 言い ますということでやの賞 も地頭と初演量子 で大十分にしましょうということになり まし たじゃあどこで2つに切るんやということ になりますよ ねで児童から見るとどこでも縁です ところが両系型をね今まで一応全部自分の もやったのを半分自とに渡すわけですから どこのすかということが問題になるんです よねでできたら ね少年領主はねどっちでもいいんです京都 から見ればね年が入ってくりゃいいわけで ねあ実チムでね2つに切るんですけどね 面積できるんちゃうん ですこの茶色い線が下分線でですけどね 自党が取ったのがこれ だけ領主が取ったのが両家が取ったのが これとこれここはま別名で別立てになって ますから ねこことここを合わせた面具とこれだけの 面具が一緒になるんです年高で分けるん です ねってことはつまりこの辺りにねいい暖房 があってここの年の取れ高が大きいの でなんです がじゃなんで東方じゃなくて西側を量器が 取るんかと言う と京都の領主はどっちでもいいんです年具 くれんですただ現地にいる人ね下地中分し てしまいます ともう意気が一応なくなるんですよね別の 単位になりますからそうすると自分が持っ ている土地現地で働いてる人にとっては どっちになるかということはえいことなん ですそれでどこを持って切るかというのは です ね関係者1度集まってえここは自党やここ は両家やてですね両者納得できるように線 を引いていくん ですで自動型はは海老名ですがどこでも ええんですけども両下型を代表していたの は寺田方面という人物でで彼は自分の土地 ができるだけ両下型に入るように線を引い ていったんではないか と教えてもらいましたあそういうことで 寺田方面の土地ができるだけたくさん領型 に入るようにこういう風に線が引いてある んやって思いました ね穴の書ですが両家型と自動型に分かれて で霊名王の部分が初めに吸い出されてます の でこれで何千寺と当時と次藤海老名に 分かられたことになりますで自の海老名は 浦と下村と神村に分けて統治しましたその 結果統治拠点が5つできます ね別名満所両系型 満所自党の館が神村と下村と浦 とでこの頃 は農民たちを支配する時ま民たちを支配 する時に宗教のからも使ってましたの で神社もですね使って良民を統治していく んですそのために少年に置かれた少年の 進行体系の中心になる神社を小円珍珠って 言うんですね小円珍珠は愛優に矢野の賞に 5つあります 北から行くと岩倉 神社若狭の天満神社ナ八幡 神社馬市神社かって馬子大明人と呼ばれて いまし た江戸時代まで ね大崎神社 です大崎神社と岡の天満神社なんですけど ね元々ねこの辺りは一体でしたからね一緒 にお祭りしちゃったんですそれを死体注文 されてしまったの でこちらとこちらで自党型と両系型で別々 にお祭りをするようになっただけど元々 ここは一体だったという意識があるの で大きなお祭りの時 は西の方の人も東へ 行くがそう です若狭の天満宮と大崎神社の内子の境目 は勝手の下中分線なのだあせやったん や東大の江原先生そういうことを本に書い てあっ て江原先生そんなこと書いてますけど言た あ言われてみればせやわ言て ね今までなんでここのここで生しと西に うこが分かれるんかなあそうかてそれ下中 風船なんやこれ下地中分線でね今で も愛の社会に生きてるんです ねもう1 個この辺ですけど ねこの辺って今 は矢のこっち若さのあって言うんです けどこの辺りの人 ね昭和20年代まで若の方に行きよったん ですお祭りの時はっていうのはこの上村 地島下村地島これで言うとこの辺りって この辺りで神村と下村が切れてたんですか ねこの辺りはこっちきったそうですでも今 行政区画が変わった からこっちの人もこっち行こうてなった らしいですけど ねそれでは この5つかなの宮を見ていき ますうまし神社 ここにありますかつて馬子大名人と呼ばれ ていました大子はねそのうこがなくなった という ね伝承があってで江戸時代まで馬子大明人 と呼ばれていました明治になってそこの 馬子て ねてことになって名前が変わって馬神社に なってるんですがインターネトで調べたら ねそがの馬子が作っ たお寺屋などはたくさんあるんですけど そがの馬が神になってるとこってあんまり ないんというかネットで見る 限りもこれ1つしかないです ねあとあいうにはねイルカブというソの イルカの名前がついてるねところもあって ソがしと縁が深かったんですかねでそがの うまがまここで亡くなったということは ないと思うけどそのうと何らかの関係が あったことは確かででそのうこと一緒に やってき た古というね家が今まで続いてます ね霊明上村の岩倉神社 ですここはねこの山のに大きな岩のある 天狗岩という岩のあるね神山という山が あってその神山がご身体 です秋にね紅葉が綺麗でね写真スポットに なってます ね霊明下村の若狭の天満神社ですここはね 優しがね分からないということになってい て宮さんも正直でね優分からって言ってる んですけどねうん勇し分からへんとね言い きれるのはそれは自信がある証拠です ね想像ですけどこれが多分ね大き柳野城の 全体の初演珍珠だったんでしょう ねでね古代えっと平安時代のね張り子ね菅 の道がねいい音量になってね暗いかちわけ て天満宮を作ったん です道の音量怖いねで天満宮が北のにでき てであちこちにね菅川の道をお祭りする天 番号作れというねそういうね動きがあった らしいん ですその流れの中で大き柳野賞がねできた 時にねこれできたんちゃうかなが私の勝手 な想像です何のエビデンスもありませ ん霊明両家方の下大崎神社 ですこの宮は ね中世の少年研究主屋にはめちゃめちゃ 有名な宮で ねこの宮で起きたことを巡ってもう論文は たくさん書かれてるし 本も出版されてるぐらいなのか なで当時 が矢野省のクに乗り出してきた頃 ねこの海で13日校が開かれとったんです 毎月13日にね観音様かな忘れたそのお様 のお経を 読むこがあったんですねでそこでね農民 たちが話をするん です最近初演領主が当時に変わったな寺田 本年がそれ消しからんとかいて当時とあっ とるなどっちにつくかなとか ねこ最近当時の大観のやり方がちょっと えぐい な共産するか共産家あの村村から逃げ出し て ね一種のまストライキですねでさらに時代 が配るさらに時代が下がりますと一期 起こすかとか ねそうすると当時の方もです ね誰がそんな立てやっとるんやてですね 農民のリーダーを失客さし太郎て狙うとか ねそういう ことが起きたというこれ当時門所に書いて あってねの当時100門所で13日高事件 が起き た大崎神社とはこれかでです ねこんなに小さな海です けど中世から続いてしかも当時号門所に何 とも登場して論文が何十本と書かれている というね こなかなか日本市で大切な役割を果たした 海なん ですラバの八幡神茶これはウブにあり ます自動の海老なしが鎌倉のね鶴賀八幡宮 を勘定しまし た自党の海老な大島城を拠点にしました けどその北側に八幡神社を鎌倉から完了し てで南側に ね江ノ島の弁天様を勘定しまし た大島城って北を敦賀八幡宮の分身である 8番様南を江の島の弁天様がやってきた 弁天者が守ってるんです ね愛省の南半分というのは 神社で見れば鎌倉文化県なん です当時がゴダ条項から領域型を寄進され て矢野省に乗り込んできます がここでですね従来の大きをやった頃 の現地を支配していた連中 と衝突します 少年はオーナーが本家でま本家 が自分の身近な人に両家というのを与え ますオーナー 社長これが担当役員ですか ねで両家はですね預かりどこというのを 現地に派遣しますま今で天長ですですね 社長を役員 店長で預かりどころは現地にやってきます と現地の人たちを雇って仕事をしますくも とか下しとか言いますね問というのは文書 管理の役割で下しというの は農業などを支配するま今で言う市役所 産業化みたいな役割それから お寺屋お宮ですねそういうとこも使って 支配していきますその現地の ね有力者が寺田方音やったんですで当時が 乗り込んできます とそれまでいた連中 ねと利害が一致しなくなりますよねで当時 としては今まで現地を支配していた連中 をやめさせて当時の言うことを聞く連中に 変えようとするんですでこれまで現地を騒 してきた連中は抵抗しますよねでこうし て現地の有力者寺田方人 と新しく乗り込んできた領主当時の間で 争いが始まります当時から見ますと少年 秩序を見出すやつや悪党や とで悪党には強いという意味んですけど ね少年の知度を満たすという意味もあるん ですね寺田年って日本の悪党として大変 有名な人で悪党の正規なんてね本問か書か れてたりなんかします ねで当時が従来の有力者たちを追い出して 当時 の思うがままに主演を支配し たい地元にた連中はそうはさせないいう ことで戦いが始まりますさてその 時農民たちはどっちに着くのかという話 です ねで農民たちは大崎神社に集まってどっち 応援しようか なでこれ まで現地を差していた寺田本年ってなあ あれらもまあ ねなんだかだよねと新しくやってきた長遠 漁師の当時の方を応援しようかいうこと で農民たちは当時側に着きますだから現地 の農民と現地の勇者は寺田本年の間にも対 があったということですよ ねでさっき説明した接し中分線ですけど もうちょっと詳しく書くとこういう風に なります 特にねここねここってよく写真に撮られて ますねここが下地中分線で東側が自型で 西方が両家型だでここね常理性が保存され てるん ですこういう風に風道が真っすぐなってる とこねここもそうですねこれ1970年代 に五上整備が行われてこうなったんです ここの教科書ではね常理性と言ったらこう 綺麗な線引っ張ってますからねこんなん ちゃうかって思うかもしれません けどそんなことはないです土地は ねでこぼこありますのでねこんなにうまい ことねいかないん です土地 の気腹に合わせて自然 に田んぼ作ってきますとこういう風になる んですね これが自然な姿ですで1970年代にね ここをね ずっと補助整備していた時にここは残す ことになりましたとこう で東大の江原先生岡山のね出身の先生でね で岡山に帰る 途中この辺りねずっと歩き回って ねでその辺りに人にも聞きまくって ねというのはこう補助整備してしまいます とねかつての地形が失われてしまうんでね 日本史的にはもう補助整備すると何も 分からなくなっちゃうんですねだから最後 に矢野のシのですね古い姿がね残ってる うちに僕はここをヒールドワークしておく んだてねエブラ先生の本読みますと僕の 青春はとにあったて書いてられますねそっ かでエヴ先生も初演の世界ではね第1任者 ですから ねで さて当時と寺田方面が戦うことになった時 に農民たち は当時側に着くことになりまし たで当時155文助によりますと当時と 農民 は大崎の殿山というところ に要塞を築いて寺田方面を迎え撃ったて 書いてあるんですその殿山ってどこやねん いうことで ねで大崎神社の裏屋からここかなってこと で ねさっき出てきたの赤松先生ね早稲田の 大学院の頃ここ歩きもあったんですってそ 聞いてねや先生偉いな思いました ねんとこ歩き回るん かで歩き回った結果いやここそんな要塞を 気づいたような跡が全くないなあて ねでところでこの隣のここなんですけど この上にね大崎山古墳という古墳あるん ですけどてこの辺歩きながらね話したらえ て連れていってくださいよし行こうててね こここでとかやってこれか なちょっと見えてますね写真ねこれ古墳 ですで古墳てね見しのいいところにあるの でえ古墳がねお城に転用されることって よくあるんですっ てで当時と農民たちが気づい たお城らしきものここじゃ ないじゃここかなてねじゃ研究して くださいよて ねひょっとしたらここが大崎殿山だという ことになるかもしれないです ね柳野シってね文助はねたくさん残ってる んですけどね少年地図が残ってないの で当時言文字に出てくる ね地名とか建物の名前とかねそれがねどこ かということが確定しないとこたくさん あるんですねあの大崎殿山もそうですけど もね掃除というねお寺がねよっく出てくる ん です神様は大崎神社仏様は有掃除U掃除で どこやって ね探し回っていて最近ねこのこっちの方で ねお寺とが見つかってねそこかな書てね 研究始まってますねヤ省ってねまだまだね 研究ね寸でなか進んでないとこいっぱい あるんですさて当時農民連合は一応まここ にしておきますねここに要塞を構えて平田 方人を迎え打ちましたで平田方人たちを 打ち破り ますところがその後ですね当時と と農民連合との間にね利害の対立が生じ てで農民たちは当時の大館 たちにね抵抗するようになるん です何を持ってね対数になったかと言う と村町代になって守護の赤松市がね当事を 矢の中に入ってこようとするんですよね でそれ鬱陶しいので仕事と話をつけ て当事医療やの省の中に入ってくるなて いうねそういう話をするんでまそれに はそこそこのま費用がかかるわけ ですでそれをね担当していたのがユソンと いう当時から派遣されてきた大観で ねでこの人 はの赤松とをつけてで守護が入ってこない ようにして そして今度は省の中をね強く支配するま年 もたくさん取ろなとしたんですかね当然 農民たちと対すようになってで農民たちは 大館辞めさせろうっていうことになって 調査してしまいます上さって村から逃げる んですねでね農作業を春になっても始め なかったらその年年入ってこへんでしょ 偉いことになるんです今でストライキです ねでユソンは秘めされますその代わりに ですね誰やねんこんな体感を辞めさせよう なんてね立てを指導したやつはっていう ことになってですねお前やろってなしされ たのが実長という人で でこの人が ね 私にもね色々事情あるんですよみんなが ね長さやろって言ってるのにね私だけやり ませんなんと言えないでしょうとかね あるいは大体ね私たちね当時がここにやっ てきた時平田本年と戦うことになって 私たちは当時応援して寺田本年と戦ったん ですよそういうことがあって ね土地のね工作権を認めてもらってるん ですよま名手って言います ねそれ剥奪するとか言うんですかおかしい じゃないですかまそういうね申し上を書い てるん です 1375年当時から追求されたさ中が父親 の実演は当時のために頑張ったんですよて いうことを書いて送ったのがこの書類です に書いてありますね県務の 初め平田本年などが打ってきた時当時が 派遣してきたお坊さんたちがやってきて 寺田年と戦うことになりました病害を大 山城に構えられこの大山城の害とはどこか というのをさっきしてましたよねで度々 合戦をしたんやこの時私の父実演はお寺型 を応援して新名を捨てて合戦をしたんです よそういうことがあって当時からよくやっ てくれたということで私たちはここの土地 の工作権を保証されているんですよそれを 取り上げるなんておかしいじゃないですか というお手紙がこれです さっき上流性の話ねちょっとしましたけど ねこれ補助整備してる頃の写真か なこれ上利性を残してますねこれ補助整備 を進めてい ます常理性って ねこれ108mごとに線引くんですか ね えこの区画これが1兆10端です日本市で ね案外ね簡単でねえ一旦の土地から1刻の 米が取れてそうすると1人分の食料が生産 できるん です一旦1国1人と覚えておくと日本市 簡単に理解できるんですね江戸時代 3000万国人口3000万人でしょって ことは 人家族が食べていこうと思うと田んぼは何 タあったらいい か食料だけ なら4タですねま子供たちちょっと少ない からまあまあ一応4タにしときましょうで 年払うななかん でしょでそれをま2タとしてそうすると4 人家族 が生活していくためには田んぼ6タいるん ですだから知民で も豊秀吉のあ徳イアスの農民政策でも ちゃんと1家族に6 端田んぼを持てるように考えてるん です秀吉康の考え方はね田保ロタなったら あんたら生活できるやろうと年も払える やろとしかも兵はないたちがやりますから ねま平気なしで6タ田んぼがあったら食べ ていけるやん年も払えるやんそれでええや んのみたちもあそれでいいかいうことに なってねだから日本って江戸時代平馬が 続くんですね日本市民革命起きひんでしょ なんで市民革命起きひん かフランス革命って貴族たちがね土地 いっぱい持っててねで マリーアントワネットがねパンがなかっ たらケーキ食べたえやん言うからねまなめ とんかではなるわけでねでフランス革命で 傷の土を取り上げて農民たちが分けて しまうんで市民革命ですね日本なんで そんなの起きんかと言う と秀吉が家康の時にそれが実現しちゃった からですだから日本で市民革命起きない それが基本的人権 を日本に定着させなかったっていう ところもあるけどまその代わりね村は村で ね自治認められてましたからねうんドカバ グっ て農民たちの細かい生活に干渉しません からね年さえ払ってくれらあんたら好きに したよしかなというそれがねエドバの考え 方なんでところで高知性の時代と ね秀吉康はねちゃんとそれしたでしょ そういう農民の生活保障しようとしてる でしょこれをねやんないのがね中世なん ですよ ね中世ってもう全部自力の世界で ね自己責任の世界です中世今だんだん日本 それに似てきてますね日本今中性化してる ん です全部自分でやれて政府は国民の生活 なんか保証せえへんで 日本史って古代 が政府がなんとか国民を食べさせて あげようとした時代中世は好きに せ室町マクが1番徹底してますね国民生活 なんか知らんかなという好きにしたえがな で江戸時代それあかんです ねちゃんと本脈賞を育成して飲みの生活 安定させましょうてで明治になって資本 主義になっ て月にした映がなになって ねででも資色社会ねそれとは行き詰まっ ちゃうのでねだから所得の細分配政策を やるんですねうん修正資本主義ってね うんで日本今ねそこ から大く組めばそうなんですよ日本史って ねそれからもう1 つ日本市ってね 中世に政府 が好きにした映画なしたでしょそしたらね 自分たちでやってかなあかんわけですよで 水理とか水とかね山とかね自分たちで管理 し始めてそのためには助け合わなあかん でしょで ね村ができてみんな集まっ て協力しやって住むようになったん ですそれが今から700年前の話 で今その村がね急速に解体してるんですよ ね今私たちは村の終わり700年ぶりの大 変格機を迎えてるんです600年から 1300年までが高知込み性の 時代1300年から2000年までが村の 時代2000年を過ぎてさて なるのかっていうね日本市の大きな時代の 転換点に私たちは差しかかってるんです ねでその1300年から2000年までの 村の時代においては ね1人1年1刻田んぼ行ったんでしたよね で4人えで4人家族で独端あったら普通の 生活できるんですけどもうちょっと頑張っ て端にしたらね 余裕のよっちゃんで性格生活できたんです これ一兆百姓って言んです ね一丁っていうのは100m四方ですから こういう感じ ですこの土地を持っていればね日本の農村 ではね理想的な生活ができたんですで私 なんかね商売人なんでねもっと増やした いいんちゃうんで思うわけですよねせや けど やってたに行きますと何言うとんやと機械 が入る前ね昭和20年代までね家族で牛 なんかま使ってましたけどね手作業で農業 しとったでしょその時にね家族でできる ね暖房の世話には限界があるんや増やせば えいたもちゃうんや増やすということは人 を雇わないとできないのでそれは自衛では なくて自主になるんやとあなるほどとから 家族で ね農業を経営していこうと思いますと昭和 20年代までの日本の家族による手作業の 農業ですとこの100m四法 一丁この土地を持つのが理想だったんです ねその一兆百省の理想 の生活スタイルがね高度経済成長と共に 崩れてしまって今の日本があるんです ねってジョイスに戻してますけどねこれ ジョイスってこう残してますけどねうん剣 が残せ残せて残したらしいですけど ねこんなんどこでもあるな気がする でしょう私も思ってましたこんなどこでも あるん ちゃうところが ね残るとこってね限られてるんででてと いうのは洪水ん時にねわーっと水が流れる と ね変わっちゃうでしょとここね微妙にね 高いんですって参りよりここね洪水の時で もね水流れないんですってなるほどとそれ から地下に埋まれちゃったら見えへん でしょ上位性の跡が残っていてかつ地標に 残っていで保存されてい てで簡単に見れるそんな場所ってあんまり ないんですってでね外の先生たちがね学生 つてたまに来るんですけど君たちこれが 常理性だよどきなさいとかで説明してる から私も横ついていってねああれそんな すごいとこなんかて ねここ学生たちによく見ておきなさいって いうそれぐらいこう価値あるんやてね思い ましたねでここなんかするねこう曲がっ とうでしょ この前ねここちょっと ね大雨でこ崩れてねこう直したんですけど で私たまたま工事しようとこう取りかかっ たらねこう工事しているおじさんがねもう あよいがなてこれな曲げたままな直せ言ん やまっすぐしたええのに な言われてましたねせやねおじさん うんでもまこれ価値あるからこう曲げた まま直してねて言ったらそうか歴史やって 変わったこと言うなまおしら頼まれたから するけどなとか言ってね直して今でもこう セメントで固めてますけどちょっと不なく なりましたけどこの曲がったままで残して ますね うんヤウの写真でよく出てくるんえっと ここですねこれが下地中分線なのでここで 映した写真が多いか なさてその上位性古代以来ね 最も農業に適した土地であるはずのこの 田んぼが ね50年 前補助整備した頃はみんなこう綺麗な 田んぼやったんです ねそれが今 やこうなっていますここは米作ってます けどももうこういうとこはもう米作って ないんですね 転作急行殿から転削になってい ます橋シとかねの写真見ますとね棚田がね 綺麗 にタエされて ね米が秋になて実ってますけどねあれは もう観光農業といういうことでねなってる から米作りできるんで棚田に比べればここ なんか平気ですからね米作りやすいはず ですけど経済原則に従って農業やりますと こうなり ますこういうところは今やお作りにはでき さ ないですね うんでこういうのは個人で作ってる田房は 米作ってられますけどもうほとんどこの 辺りの人も ね農業は農業法人かなそういう こう会社 に頼んで作ってもらうんで会社から見る とこんな作りにくいとこってね形でもコメ 作らないですねあだ から矢野省って観光地す観光地進んでない から ね逆に言えば経済原則で動いてますのでね 社会学的にはこれ面白いんですよ日本で 一番農業に適した土地だけれど も放っておくとこうなるという ね実例です ねさっきた足しの ですここは鎌倉時代 の田んぼの跡がねそのまま残ってるという こと でここも残ってるんですけど観光地下市内 で経済原則に任せるとこうなり ます観光地下するとこうなります ね秋はイルミネーションが入るそうです でその少年なんですけども大人ドランの頃 に少年領収も大名も京都でねどんちゃん やってますので地方の当時がおろかになっ てですね少年を ねいろんなやつ がパクっていくということになって少年は 解体が進んでいってで矢野省でもだんだん ね当時に年が収められなくなってね小円は 解体に向かいますで戦国時代になる とお城がね気づかれるようになり ますこれ下以上って言うんですけどね下 以上の鉄片にも山白が築かれてい ますこの物以上 ねこっちから攻めにくいように 斜面削ってね縦振りがばれとんですで 向こう側骨になっていてね向こう側から 攻めてくるのでホキがね何十にも掘られて いますこの掘り切りがねすごいんですね岩 をね掘ってね掘り気にしてるんですけどね もう山代不安がねもう感動するね山白 ですこちらは感状さん です ねこの上に石垣がちょっと見えてますけど ねこのお城は今残ってるお城は ね有馬の集題裏紙のね有力者が気づいたん ではないかと言われてます が伝承によれ ば南北町の戦いの時足高が北畑秋に負けて 九州逃げた時に日田吉里が追いかけてきて それを赤松速雄がこの後ろ で食い止めて日体スが九州に行けないよう にして時間を稼いで高松え足がが九州で 勢力を挽回し てで港の戦いでく正を打ち破っ て京都に入るんですね出かは悪足いう よくやってくれたということで感情を与え たということからここを感情3という と感情参上と言うということになってるん です がエビデンスあんのんかと歴史学者は言い ますしかし地元ではここは赤松特有が 日体を食い止めた英雄赤松特有の白屋と 伝えられてい ますただこのお城時代はね研究がまだまだ 進んでないんでね最近これ知えなくて中世 の寺院なんちゃうんという説も現れてます ねてのこれ意がきあるけど掘り取りがない ので お手だちゃうんかという説もあり ます感情3条ですねこのちょっと こう局面になった石垣が特徴 です 今赤松の本拠地白畑城と並んでね国の指跡 になってます ね先ほど ね中世は村の時代ま鎌倉から鎌倉時代の 終わりから室町にかけてね村が成立して いったって言いましたけど ね村の人たちは集まって住んでその集まり の中心に王道がありました騒動っって言い ます矢野城のね北の方は中世のおかがよく 残っていてね で無に行きますと必ずお道がありますあ堂 かビシャモンテ堂か釈迦堂かまずは別にし てお道必ずあるんです ねで村に必ず小道はあるんですけども村に よってはお寺があるまほとんど譲渡新州 ですがお寺がある村もある ただし村には神社と騒動は必ずあります けどお寺はあるとことないとことあるん ですで上土新州が いつ頃柳野掌に入ってきたのか今はね張ま もんと言われてこの辺りは本願寺のモトが ね非常に強いところなんですがお寺がいつ できたのかっていうことをね調べていき ますとま1500年頃戦国時代の 真最中 に上土新州のお寺が作られていったことが わかり ますとこでその上土新種のお寺なんです が愛矢野省の東側にあるんですね西側には ないでこれに下地中分線をこに重ねます と何千事量と等事量になっていたところに は上土新州のお寺は作られることはなかっ た天台から新州に変わったり新婚から新州 に変わったてはありますけども 新しく上土新種のお寺として立てられた もの は当れを断然治療にはない全て自党型に あるですね 私ね社会学なんで ねこ面白いなって思うんですけど ねだけど歴史学の専門 家はねこういうのはやらないんですねなん でかと言うとそれ証明する文じゃどこに あるんやことになるので ねま状況証拠としては下地中分線によって 宗教空間が仏教の宗教空間は異なっている ということだとま私はこう作ってね楽しん でるんです がでところでテウ制度ってね教科室でやる でしょうでテウ制度が入った時に西側の方 ね旧等事量旧何千事量ねお寺ないですよね 村にでお寺どうしたんてなるでしょうで寺 制度って ねキリシタンでないことを証明せばいいん ですよねからどこかのお寺に登録するん ですけどお寺ねどこでもいいんですって何 州でもいいんですってで上手人集でも あちこちのおテあるでしょどのテラでも いいんですねで家単位でねお寺を指定して そこの段階になるんですってだから東の方 はねま近くにお寺ありますのでね近くのお 寺の段階になってるとこが多いです けど旧何千治量旧糖事量の方はお寺がない ので ねだから好に選んだみたいです よこの辺のおタでもえいしいやタのでも ええしアでもえしねどこでもええんですテ 指定したよわけてだからこっちのね愛市の 西方の方ねで ね1つの村の中でも隣さんはお寺立のや けどうは上郡やけどその横の家はどこそこ のお寺へみんなね上土新書なんですよだ けどお寺ってバラバラなんですねそれなん だかなて思ってたんですけどそっか寺制度 って家ごと にお寺を指定したんやなとあで個人じゃ ないんですね家ごとに決まってるのでだ から結婚すると突撃先のお寺になるんです ねまそのあり方が今やっぱ合わなくなって きてるんだと思いますね寺 制度江戸時代に作られたそういうやり方が 今のね個人 でま進行というか考え方を持っていこうと いう時代には合わなくなってきてるですね まここも時代の曲がり角に来ているのか なでこれは原6時代の地図 です愛の裏分の地図ですねでここ見て ください万州赤軍や賞と書いてあるでしょ 別名 ナイニシエ のいで原613年と書いてますか が江戸時代には愛の南の方のたちも万州 赤軍矢の症である と考えていたことが分かりますねで明治 以降この王って呼ぶんですがこの王にね 大きな造船症ができて張造選書でそれを 中心にこ町が再編され再編成がを繰り返し ていっ てで元に戻るんですね矢野章って1回 バラバラなるんですけどまた張松戦争を 言動力にして合併合併繰り返してで気が 付いてみる と中世の大きヤ賞がそのまま愛用師になっ ていたとで私ね少年都市てね名前つけてね ちょっとはね売り出せばいいと思うんです けどねうん で今ここ愛して言うでしょなんで愛って 言うかと言うと自党の海老名が鎌倉から朝 からかやってきて ね王というところを支配する時に字は大て 書いてたんですけど ねこれの字 を さがみ生まれ でぶとしたわけ ですだから これオーラなんですがでこれをねあいとも 呼ぶようになったんです ね相マスとは何の関係もないん です相生まれの自党海老なしが支配する 土地という意味であいというですね今この あいという地名の方が9矢野の賞 を全部呼ぶ地名になってい ますでこの地域なんですけど ね中世矢野省大きや省の中心部 ですここってね日本のね平均的なね歴史 悩みが凝縮しているんですねあいう矢野賞 って 面積がね 90mあるん です日本の大体1/4000なん ですでヤノ省の人口って今愛子になって ますが約3万なんですで3万に4000 かけると1億2000万なるでしょで日本 全体の人口今1億2000万でしょつまり ねこの地域ってね日本のね平均的な密度を ねずっと保ってきたん ですというのはここの地域ってね便利な ところでね最後街道が通ってるでしょう 北道2号線が通ってで山陽本線も通ってる んですというのはねここねここがね山が あって山があってね川が流れ出してここ しか取れないんですあの京都の近くに山崎 ってありますよねあそこ 阪急も京阪もJRも北道2号線も全部あこ 通っていくんですねあそこしか取れないん ですねそれに似たところでねで神戸から 岡山に行こうと思いますとトンネルなしで 通過しようと思うとここしかないんです みんなここへ集まっていくんです ねで交通料があるので大きな権力者現われ ないんですけど平均的な生活がずっと営ま れていてまつまり交通が便利やから加速化 することもないんですねで日本の平均的な 人工密度をずっと多分保ってきたでしょう だから古代中世金星近代とねあらゆる時代 の人間の営みがここには残ってるん です しかも年か住宅化もねしていないので ね古代の古墳があって常理性があってこの アにじなんて水子天皇の時代からって言っ てますから ねそして中世 の満所があって え大き量の満所ですねで下地中分され てで大崎神社と か掃除とか福正寺とか当時105門地に出 てくるねお寺や海もあっ て戦国時代の下城があってで金星になる とここは旗本朝なけるよになって元麻野若 の神夜が置かれてで明治になるとここを 山陽本線が通過していきますという風 に古代中世金星近代 までここだけで勉強できちゃうよというね ワンスポット日本市ができるね珍しい地域 なんですでしかもここさ当時百王門上とか ね朝の早門上とかね きちっと日本有数の資料によって エビデンスも取れるという地域なんです がだから研究者はやってくるんですだから 愛子は ね観光地でここ売り出そうというそういう 気持ちはないの でだ観光バスはここにはやっていません まあ看護バスきたってこ入らへんしねここ ねで見たってこれ普通のけですから ねここ ね楽しもうと思うと私がね今2時間ほど 喋ってますけどこういうあの知識が ちゃんとないとねどっこにでもある風景や んどこにでもあるんですよだって少年 なんて日本所全部そうやったんや からただその中で当時文助とか朝の早文助 とかそういうねエビデンスに基づいて きちっと中世を語れる主演というの は10いくつかなんですかねあ天使角残っ てるお城がそんなもんでしょ少年もそんな もんですよね うんだから少年 ツーリズム中世日本を楽しむ 少年を見に行こういうことになれ ば日本で10本の指に入る商でいやベスト 3に入るかもわからへんねここはねうんで 最なことにさっき言ったに観行客きません のでね少ない人数でやってきてねここ歩く と中世日本が楽しめますいいとこですね ただよく勉強してやってきてください ね歴史の勉強しないでやってきて歩い たってたんなる田舎のにしか見えないので ねで さっき江戸時代はここは赤本朝家3000 国のね所になったと言いましたけど赤麻野 家って麻野巧の神の人形事件で断絶したと 思われてます が恩家はね断絶するんですけど文系2つ 残るん です飯原朝と若の朝ですで松まで続きます で赤飯があった頃はねここ全部赤飯が統治 してで年はいこれってねくれてたんですが コ案がなくなっちゃったので自分でですね ここねトさなかんやんだってです ね朝野神夜若狭の神夜の拡張が図られ ますで 1822 年田本朝は反発を作ろうということになっ てそのためのオフィースを作ろうという ことになって座という建物を作りまし たでこの建物 ね今でも朝の毛が持ってるんです が老朽化が進んでましてねで地元の文化財 保護審議会は陽市の文化財保護審議会は こんなものは残す価値なんかないて言って ますのでねまは全く動か ないでもねこれ残す価値あるんちゃうかな と思ってね 私麻野さんと話をしてじゃ私こカリに みたいなことしてるんですけどねだんだん ね同級化進んできてね特にこの屋根の 向こう側ねこれここれあるこれないでしょ いかんなと思ってね今年はねこれね 直さないいかんと思ってん です私もそれなりにお金出きですけどね とても私の方では足りないのでねうん クラウドファンディングでもするしかない か なって思ってて間もなくクラウド ファンディングをするかもしれませんので ね協力してねみんな ねませっかくこれ映ったんだからエド時も ちょっと説明してきますかねこれね虫コど って言うんです2階建てにしたあかんかっ たね映の時代ってねだから2階建てじゃ ないよここ2階ちゃうんですってね窓って つくったあかんですこれ通風口なんですで この形でね時代が分かるんです丸 楕円正方形長方形と変わってで大体その後 2階建てになるんですねまこれ系の窓なの でね虫窓が作られ た4期のうち第2期のものだていうことが 分かるんです ねで今この建物 ねヘリテリマネージャーたちがねこれね 面白い建物やからねここで研修しましょ うってねで文化山の専門家の先生に頼んで ヘリテージマネージャーってねみな建築士 の人なんか多いですからね 普段文化財の保護に当たっている ヘリテージマネージャーの人たち がどういう風 に考えていくべきかということを もっと上の文化財の本当の専門家からね 教えてもらうというそういうこと勉強し たいなどっかいい会場ないかなこれ今 人住んでないですよねじゃあ中自由に使っ てもいいですよねあ どうぞでこれ今年の2月かなヘリテージ マネージャーの研修会が行われた時 のえ写真 です丸1日文化山の専門家が ねここ中をねこここうやって見るんですて ね テリテリマネージャーを指導してました私 横で聞いとってねあそうかってここここ さしてみるんかってね分かって うんこの建物だけで ねちゃんと説明すると うん1時間ではできないぐらいですねここ こうでこうでこうでてね説明してくとね 例えばここにこうガラスでしょこのガラス はどっかとかね うんこれは価値あるやんてに思ってねそう いう 木造建築物木造建築物歴史的建築物文化剤 がどのように変化し ながら今に至ったかということを学ぶ建物 としてはねこれいい建物なんですよ ね そもそも旗本朝野家が200年前に立てた ものが爆の人野の中にそのまま残ってると いうだけでそれだけでもね価値はあると うん愛用師の外のね専門家は言って くださるんですけど ねなんせ地元の文化財保護審議会がこんな もん価値ないっていうので困ったもんです ましかしね今までねせっかくいやほこれ 価値た建物なんで私なんとこれ残したいと 思ってい ますまということでですね あよい柳のシの歴史をですね2時間ほどに まって話をしていました

矢野荘は東寺百合文書に登場する領域型荘園です。秦氏による開発から、後鳥羽院による王家領矢野荘の成立、地頭の着任・下地中分、東寺矢野荘での寺田法念や農民の動き、荘園解体から旗本浅野家領になるまで、矢野荘の歴史を追いかけます。
#荘園 #矢野荘 #東寺百合文書 #王家領矢野荘 #相生市 #鳥羽上皇 #寺田法念
矢野荘再生リスト https://youtube.com/playlist?list=PLOGz3aCYyXcgxOh4tVfl84AlYe5Kb67Dj&si=Ew8MtXfQlzzpNvyP
1.秦河勝と矢野荘 https://youtu.be/x73zA0hBJDU   
2.三濃山求福教寺 https://youtu.be/lZmjqurzsMY 
3.秦為辰と久富保 https://youtu.be/Q_Os8BkI2dI 
4.王家領矢野荘の成立 https://youtu.be/jzOLVsPA5w8
5.荘園領主の変遷  https://youtu.be/YOupPvBpk7A
6.地頭と下地中分  https://youtu.be/4Y07UkVn4YU
7.東寺と悪党・農民 https://youtu.be/6244GPHYEE0
8.条里制と日本社会 https://youtu.be/mtlqfww6tks
9.戦国時代江戸時代 https://youtu.be/BSTdPuHiLHA
10.旗本浅野家所領に https://youtu.be/0B-K1H3XmaE

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