0105 シンポジウム「中・近世門跡論の可能性を探る」に関する個人的メモ

[音楽] 第105回配信を始めますタイトルは シンポジウム中金性え悶絶論の可能性を 探るに関する個人的メモ ですえっとですね昨日 あのぎっくり業もまだちょっと直ってに 直っていなかったんですが え東大でですね東大の本合キャンパスでえ 中金性問責論の可能性を探るという シンポジウムが行われるのを知ってですね えっとちょっとその興味があったので言っ てきてみましたそしてですねえっとま私は あの中金生移行機に関する知識が全然ない のでえこのシンポジウム全体をですねえ 紹介する能力は全くありませんがえただ 自分の個人的関心からちょっと興味を持っ たことについてえ23述べておきたいと 思いますえっとですねこれはあのまずこの シンポジウムですが あ中金制移行金の門跡に関する資料学的 研究と [拍手] いう 見のですねえ 介氏鶴大学準教授 を研究代表者とする家憲のですね え成果報告ということだそうですそして ですね えっとま10時30分からあ17時実際に は45分まで え相当の長丁場でやったんですけれどもま あ 非常にですねスムーズに進行してですね えちょっとびっくりするぐらい見事にです ね近藤裕介相馬あかですかねか太田三石 裕介氏まではですね本当に見事に進んだん ですけれども え水谷がですねえ持ち時間をになってこう 仕入れられてもですね全然同せずに発表を 続けておられてですね結局1人ああ40分 ぐらい の持ち時間でえそれでえま適休憩挟んで ですねあの歴史研究会大会のようにですね 4時間連続で討論するとか言ったですねあ ちょっと変態的な あの時間割とは違ってですですねえとど 休憩破産でえ実にえ見事に進行していたん ですけども最後の水谷幸市がですね え15分ぐらいオーバして話しまし [音楽] て40分の持ち時間で15分オーバー するってのは結構なかなかの神経だなと 思うんですがまあその点を覗けばですね 本当に スムーズに進行がなされていましたねで 最後にあの この5人の方の発表の後最後にですね大田 大一郎氏があ30分 ほどコメントされていてですねその後質事 がああってえま時間より予定時間より呪言 をバして終了しましたそしてですねあのま 私はですね え何興味を持ってえこの進歩に行った かっていうとこの え2番目のあ失礼3番目のですねえ太田道 市の悶絶となった新新州の本山寺院え千十 寺を中心にということでま元々高田千千十 にそれなりに興味を持っていたものです から あそれがですね [音楽] えま私のの興味の対象は大体鎌倉時代なん ですけれども鎌倉時代から南北長の初期 ぐらいなんですけれどもその後のですねえ 千住字の変遷っていうのは全然知らなかっ たんでえちょっとそれを知りたくて行って みたんです ねえっとま先の先住に関して後でちょっと 話しますけどもまずこの悶絶ですが あやっぱり中世と金星では門跡の概念が もう全然違っちゃってる感じがあ概念が 違っちゃってるっていうか随分その門跡と 言われてるものがですね中世と金星では 随分違うなということを感じまし たあの 太田総一郎氏立教立命官大学教授の太田 総一郎氏のコメントが非常に良くてですね えそのレジメも参にな参考になったんです けどもその 1番冒頭にです ね恐れイアの木人嘘築地の五問関国慶本 19世紀とあったんですねで私はですね この税分はもちろん知っていたんです けれどもまあこれえイリアの信玄寺ですよ ねえ今は麻川一で有名なお寺さんですが この後半の嘘を築地の五問関っていう表現 を知らなかったんでえーこれちょっと検索 してみたら ああまオーストラリアの岸文字はなんか 太田ナポが1番最初に言い出した地口の ようなんですけれども嘘つきじの五問月 っていうのは別にですね えこの入谷の岸文字とセットになっている わけじゃなくてですねべこ独立に言われて いた地口のような感じですねでこちらあの 築地ですからもちろんえ本願寺ですよね 築地本願 寺 あのこういうサイ検索したらこういう サイトがあったんですけれどもえ築地本願 寺の周囲にはですね 門沢橋などというのがあっ たりあと交差点も悶絶橋だったりですね えま悶絶という表現がですねえ 外ま今それほどでもないんでしょうけれど もかつて は非常にですねえ人に解釈していたものの ようですねであの私のですねですね Twitterのえ総互フォロワーにのま さんという方がいてですねこの方はあの 金星文学に非常に詳しいんですけれども 詳しい方なんですが恐れイアの岸文字に 続く う嘘つきじっていうのはですねのまさんも 聞いたことがなくてですねま情有馬の水天 宮だとかびっくりしたやの高徳寺だとか こういうのはまだ有名だそうですけれども あんまりですね嘘きじ のはですねそんなに知られてないんじゃ ないかなということらしいです ねまそれともかくですね えっとやっぱり悶絶といった場合ですね 中性的な感覚と金星的な感覚の大きな違 いってのやっぱりえ上土新種の門跡ですよ ね 正直ですね鎌倉時代における上土真州 なんてのはま反大政の宗教ですよねバかバ 野長底から弾圧されていた宗教でまそれで それがあの室町後期になってですね上土 あの え大変なその大勢力に連日以降にですね 大変な大勢力になってそして金星え江戸に 入ったら悶絶になっちゃうわけですよね まそれ問責としてえバから公認されて しまうわけで正直ですね中世前期しか6人 知識のない私のような人間からするとです ね上土新種が悶絶だなんてなんか非常に 奇妙な感じがするんですよ ね生きだ上土種ごが生きだっていう感じが 正直私はするんですけれどもこれ のやっぱりですねあのまあの発表でも若干 触れられていたんですがやっぱり相当です ね門跡なりにする時にえ旧来の勢力から ですね抵抗はあった あらしらしいですねま当たり前ですけれど もでこれあのあんまりしっかりした時点の 解説がなかったんでえまあウキペディア ですけれども え門跡とは高速げが住職を詰める特定の 寺院あるいはその住職のごと自覚の1つと いうことでですね えま ああまり全面的に信頼できる記事でもなさ そうですが最初にま長村誠市のですねえ 文責のえ説明があったりしてですねまこの 辺りはいいですですよ ねまそれで えっと幕府に入ると宮門関石家門跡政聖画 門跡久保門跡純問責などに区分して制度し た云々ということでです ね まあ宮と設計はまだ分かりますけどその後 ですねなんかなんだかなっていう感じが 正直しないでもないんですよねで特にその 本願寺で えここにですねえ若干の経緯があ書かれて いますが戦国時代に入ると千十との勢力 争いが深刻になる中あ少女権が2台続けて 石関系条件の有となるとんでえっとまあ 先住との対抗意識からですねえ本願寺 も頂点 に積極的にですね工作を仕掛けてえそれで えA62年1559年に本願寺を悶絶に レスする仰木町新道の直居が出されたそう ですねでこれにちょっと遅れてですねえ 先住寺の方にもなんかちょ直球があった らしいんですねでまただその後も随分あの いろんなこと言われたりしてですね 結局正式に文月と お準文の核問い続けられるのは随分後の みたいですけれどもまこの辺り私はあの 大して知識がなかったんでですねこれから ちょっと調べてみたいと思っています そして私ですね前にやっぱりちょっと悶絶 っていう表現が奇妙に感じられたのはえ 金星の運上名論っていう資料を読んでいた 時なんですねあのこれも随分前7年前なん ですけれども当時ですね東京大学名誉教授 のですねえ渡辺浩司の東アジアの王と思想 という本を読んでてです ねもおかしいんじゃないかと思ったところ があったんですねで渡辺市はあの歴史学者 の藤田各ですか悟ですかねこの方資料変3 所の教授だった方ですけどもこの人 の論文を参考にしてえ色々言われてたん ですけどもどうも藤田市もですね変で渡辺 市も変でえなんかですね えま正直東大名誉教授2人 にしてはですねえなんか基本的な資料の 読み方もきちんとできていないような気が したんですねま不ですけれども私はそう 思いましてえまそれともかくですねえ藤田 市の江戸時代 のえあ運助メラに関するですね藤田市の 江戸時代の区名簿長底の職員録とも言う べき運助名論というですね説 えを確認しようと思ってですねえこの実物 を見てみたら あその上官外間に分かれていて上官の方は 金利故障号音型五陰ご省恩宮方新の音型ご 問関型 あごび5所と分類されていてですねこの五 問関型っていうのはやたら詳しく出てるん ですね でなんじゃこれと思ってえそのご問月方な んですがえ輪王寺宮五問関忍五問関大学寺 五問関明法院五問関小合員ご門関症員商連 員チオ員下寺カジ満州員ビシモド円満員と いうことでですねでこの後大常人一常人ま これ奈良ですよねあと実装云々ということ でえさらにその後ですね本願自ご問関東 本願寺五問関高正寺五問関仏光寺千住 寺これ何て読むんですか ね金食事ですかこれ ま私も本当に 金星というか新州については無知なん で金食事でいいんですねえまアドレスの方 がそうなってますから ねえ まということでえ123に分類されて1は 新のが入る特に格式の高い文月人とで2は 石関係ということですが3が上土真州関係 なんでです ねなんかこんなのが悶絶なのかと正直私は ま7年前の私は思ってしまったわけですね でなんか変だなと思ってえ国士大事点の方 の運上メラ見たらこれはですねあの西本願 寺が出してるんだということであなるほど ねということでえま一応納得できたわけ です本願文月の説明もやたら詳しいんです よ ねでまあ運上名欄の先週出版は西本願寺の 宣伝活動の一環かなっていう感じがしたん ですねでこの後もち特にですね金星の問責 については認識を深めることがなく今に 至ってしまったわけですけれどもえっと それにしてもなん信頼 の教えを受け継ぐと称する人々がその悶絶 となってえ喜んでるっていうのを聞くと ですねなんだか悲しいような話悲しい話の ような感じもしないでもないですねあそれ であとですね あの今回あの [音楽] 太田三氏の発表レジメのですね参考文献に え 万波とお読みするのでしょうか万波久氏の 金星物書の文化士西本願人教団の出版 メディア出版メディアという本がですねま 参考向け載っていまして え近世の出版物のうち圧倒的多数を占める 書から金星仏教の実情実像や当時の出版 制度本野と寺院の関係等を解明する意欲的 論考ということでですねえこの目を見ると おまあ色々興味深い え表現が並んでいるんですけれど もこのですねク鏡を巡る争いいという ところでですねえさっきは私があの運助 メラについて感じたようなですねいろんな 疑問を解く手がかりが多分ありそうな感じ がするのでこれちょっと後でえ読んでみ たいと思っていますさてですねあの高田 千住ですけれども私がなんでそんなものに 興味を持っているいたかと言とですねこれ はあの えっと千字でですね私のブログを検索する と記事がですね え結構出てくるんですね10ま今回1つ 追加になりましたんでえ これひまたま1ページでえ15の記事なん です ねでさっきの運助メラと西願寺があって [音楽] えあとこれはま随分古いやつですかね辻え 前のが大正年え伊勢千でえ実が問われてい た診断の筆を発見ということでえまこれを 含めて全部で17の記事ということでま 結構それなりに色々あの書いているんです けれどもこのですねあの中心となったのは あ えっとですね平のよりの時代にですねえ 寄つが商会という人物のですね横スネ モントの紹介の競業新相開発事業をですね ですねえ目板でえ競業新相を印刷したわけ ですけれどもその下半事業を平 のよがあ援助したというようなですね記事 が あ あこれあの 高田千住からですね対処時代にですねえ そういったことを書かれたあ こあこれですねえ千住地蔵の競技信相2本 及び同particularの中山地蔵の 競技心象の奥書きにですね競業新相が平ら の与の炎上によって開発されたことがあ 記されていったということでですねえこの 点についてちょっと私は興味を持ってえ前 に色々調べてみたんです ねそれでですねあのまあその点はま話し 始めるとものすごく長くなってしまって また複雑な話なのでえ今回全部省略します けれど もちょっと面白いのがですねあのこの平松 その研究士において非常に重要な役割を 出した人に え平松冷蔵という方がいるんです ね でさきのト立な云々に関してですね平松 冷蔵市の高田法規より発見された新資料の 位置についてというえ論文がですねえま 画期的なものだったわけですけれど もこの平松市自身もですね結構なんか 面白い存在でですて えこの一神殿の 近くの郵便局長だそうなんです ね平松冷蔵市は三重県津一新殿町にて郵便 局長であった平松健造の長男としてえ新州 高田本山千住寺の門前に生まれえ兄弟で 赤松俊秀に指示一神殿郵便局長を務める傍 赤松赤松俊秀と第3高等学校での同級生で あった高田高田 千住 ホス時行権ですかね行家の進めによりえ 同時に伝わる診断以来の伝法え 法法法物類の調査を継続的に行ったという 質ですねで郵便局長待機職業後に有国大学 教授なられてるんですねまあ郵便局長減っ てから大学教授になるっていう方もま随分 珍しいんじゃないかと思いますが あこの方ままさにそのま生まれついてです ね え 高田派の本拠地近くに生まれついてですね え高田について研究されてさするためにま 運命付けられたような方ですよ ねまこのあの休業新書の話私はものすごく 面白いと思ってえ以前色々調べたんです けれども まま普通の人にとってはね別に大した話で はないと思いますのでえ興味を持った方 だけですね見ていただければと思いますあ えっとですね ちょっと紹介が後になってしまいました けれど太田光市は三重県総合博物館学院だ そうで えっと専門分野は伊まりや反抗など江戸 時代の三重県の宗教文化を中心に研究と 合わせてえ一行一期本願寺や千住字など 戦国食機の宗教についても論考があると いうことでえこの中の1番ですね当面の 問題え問責の問題について1番重要な論文 はあ3番目のえ本願寺門跡なりと純文月 本願 寺というものでえ長村マ市編のですね中世 の文月と後部権力に納められたこの論文 ですけれどもそそもそも門跡がですねなる ものっていうのがやっぱり え非常に特殊ですよ ね古からのがあって門はその歴史と伝統に 基づいて え門跡のその権威が認められるんだって いう自然にですね権威が認められるんだ みたいな感じでついえ私なんか受け取って しまってたんですが金星だと悶絶はなる もんなんですよ ねまなると言いますかこれは認めてもらう と去してもらうということなんですけども それもなんだかなという感じが正直までも し ますそしてですねあの千住これ本尊の ホームペ本山のホームページ公式ホーム ページが非常に立派なものですけれども逆 にちょっと立派すぎてですね全体像は掴み にくいといえば掴みにくい感じなんです ねでもうちょっと勘弁なサイトだとこの一 でナビというのにですね一神殿の歴史 が甘目に書かれていてです ねで えこれですね えこの部分が千十字で えで昔のえ看護集落はこう いう えっと西側の方はここ沿っていてでこんな 感じで看護集落があったらしいんですね このま千治の看護集落っていうのは 結構地理的な観点からもですね地理学 なんかの観点からも注目されていて有名だ と思いますがえっとこちらのまた別のです ねえサイトによれば あま今の状態こんな感じですこのぐらいの 広ですね えあこれですねえっと現在の千住字がこれ で えなんかあの昭和初めぐらいまではあ やっぱり本当の水田田んぼの中にですね この 千住だけがですねドンと存在して るっていうような感じだだったらしいん ですけども今ではあ相当住宅地も増えてい てですねで え看護っていうのはあその千住字を囲んで こんな感じであったそうなんです [音楽] ねまこれは あ後後でちょっと見ていただければと思い ますさてですね えっと 千住ああそうですね えっと先住ま個人的には非常に興味が興味 深いんですけど も私がやってるような研究はですね一般的 には全然 え興味が興味持つた少ないと思いますので ちょっと飛ばしてですね次あの各と神源と いうことなんですがこれはですね え 相馬和正の中世末期の三門派門跡と円略時 復興というですね発表の中 にこの2人の名前が出てきたの であ失礼えっとこの点ちょっとまた別の ですね全く別の観点からそのえ武田神源が 各所に送ったというですねえ サズについて以前ちょっと調べたことが あってですねえそのそこにほんのちょっと だけあの重なるような部分があったんでえ ま個人的には面白いなと思ったんですねえ それどういうことかという とまあ の発表はその山の焼き打ちの後ですねえ どういう風 に山が復興していったかそしてその際には ですね え平山の三門関がどのような活動を行った のかということを え述べたご研究なわけですが あその信長によってですね1971年にが 地になった時時にえ天台雑談になだったの は各条というえ後奈良天皇の王子なんです ねえこれ前年にかあの天台座席になった ばかりなんですけれども え各所はですね えその翌年に え武田信玄へのごの 早場言早場人間 武田信玄がゴ僧城に人感するようにですね 斡旋しているということで えー私はこれ結構びっっくりしちゃったん ですよねま元々あの私は武田信玄に関する 知識なんかあの高校生並みなので全然知ら なかったんですけれどもそれでもですねま 信玄が暴走になったということはま一応 知ってたわけですねしかしそうかと言って そんな高い 位とも思ってなかったんですけれども で言上なんですよねこれあのつい最近 えタ市の本を読んでですねえ早場以上が 全然その確実した地位なんだとそれ以下と ですね え早場以上言の相場以上ご相場以上はです ねもう全然違うんだと人数も違う し あの格式がですね え格差があるんだということをつい先日 知ったばかりなんでえまそれでですね え平正幸市は鎌倉時代を4期に分けてです ねで その厳密仏教のえ時期的な変遷を知るため に上以上の数を通時的指標としてですね 研究されてえ調べられてですねで第1期第 2期第3期第4期と分けてええ除の数が1 から13956とま最後の時期に急増する わけですけれどもこういう風に変化したん だということを発表あの述べられていて ですねえま私はそのこの平ら市の論文を 読むまではあ女っていうのがそんなに すごい存在なのかかっていうこと自体を ですね知らなかったもんですからまふんて 思ったわけですけども今回ですね その発表聞いていたら震源がゴの相場だと いうこと でまこれもなんだかなという感じが やっぱりしますよ ねもう中世 の感覚と金星の感覚ま金星って言っても 戦国ですけどもあえっとまどこから金星と いうのかっていう問題がありますけれども 戦国後期のですねえ1270え1570年 代の話ですけれどもそれでも震源がゴ除 かっていうのはまちょっとびっくりですよ ねまそれはともかくですね私がなんで各所 に各所と震源に興味を持っていたかって いうとえこれは あの伝モシ筆サズというものなんです ねこれですねもう随分前え2013年に ちょっと書いたんですけれど もえ当時私がですねBBCのサイトを見て いたら動画でえビクトリア&アルバート 博物館の中国美術館を美術点を紹介してい てですねそこにサズが出てきたんですね これもこのリンクまだ生きてるんでえ ちょっと見てみる と victofes [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] [音楽] このろにサが出てきますよね この方が激されるんです ねhas Canwehavealookat somepieThroughEX MONKEYthisonehere STRMESOabsoluttell aboutthisworkYeah thiswork waspained in12CenturybyaCourt ArtistintheSouthern sdynastytheCourt Amazing paintingrealistic verynaturalisticas youcanseehereIcall this WhiteBITSOFTHEEYEif yougotothe exhibitionyouwill seethatpaintedonthe backofTheSilkinGOLD IMAGINEinmedieval timesUnder candOnlyTheGodInThe DarknessonlyEyesin DARKWLonFACE まあということでですねこのBBCの番組 ではですねえ東白所蔵のサルズなんだろう なと思ったんですけどもその説明がですね 全然ないんですよねでまあ新聞記事なんか 検索してみたんですが あまやっぱり東白所のという説明はなかっ たんですねましかしま見れは分かるわけで これはあの東北所蔵のサズに間違いない わけですねで えこの当時ですねえこれもうあの文化遺産 オン ラインというサイトの方はもうちょっと 切れちゃってるんですけどもこの時点で 確認した時はですねこのサズは単なる射術 を超えた優れた表現をもっとより数ある 総画の中でも名品として知られている 中国の猿ではなく日本猿と言われ水木のみ なら ずこれコデでいいんですかねコデを用いた 怪がきは極めて繊細で自然である南草の 外因画科である猛省 の 作の伝承は可能男優に始まるものと回れ その根拠は楽しいものがある武田信玄より 満員 各これは字が違いますよね普通は あのこれだと核によって読んじゃいます けども各女ですよね各所に寄進された由来 有識を持つとまあ違っと断定しちゃいけ ないですね多分まあこういう表現もあるの かもしれないですけれどもま あ ま文化線オンラインでは説明こういう説明 があってですねで日本猿なのになんでえ 南草の画家が書いたのというま当然誰でも いくですねえ素朴な疑問を私も抱いたわけ ですねでそれでちょっと検索してみたら ですねえ二公平士の猿の円形で猛省猿ずの ことからというエ手が出てきてですねえ そこ にこの絵を見て即座に日本ざですねという 人がいた動物学者があっさり追認した大陸 に日本猿は住んでいない層の猛省はには 描けまへの権威たちは困った九州協議の 結果あ猛暑の公明を伝え 聞き日本猿を総の国へはば送って描いて もらった絵だと決めた以前博物館では重要 文化文化財サルズ伝猛省質12世紀南時代 の作品として陳列してあるがその人は納得 したかどうかということでですねこれが あのその人はですね えその当時の交代 使つまり現在の条項陛下なわけです ねで今少し徳がしの文章に即して紹介して おこう試は始め私の友人にAという男が いる幼稚園から大学までずっと一緒で今で も親しく付き合っているからもう44年代 の給油であると交代使を加盟であげAが 生物学に精霊してきたことを巧に読者に 伝えているとでそのAが美術市学の某先生 から中国絵画の個人講義を受けていた時に 段のサズを見せつけえ見せられ即座に日本 座るだと指摘した某先生は扁桃に吸し宿題 として持ち帰って動物学者に意を求めたが 答えは同じ中国には生息していない日本 ざる美術学の権威がよって相談して挙句先 に言ったような解釈に統一してえ某先生は Aの回答とされたそうだということでです ねえまという説明をもらったんだけどね 考えられるかね徳川はどう思うねという やり取りがあったんだそうです ねでまあ これですねやっぱちょっと不思議に思って えま私のサイトの常連の藤筆山さんていう 方がですね え鴨川の武田と勝よにはですね猛省か田舎 ともかく程度の忘れた術しかないってこと を教えていただいてですねまこの後はも 全然進展せず [音楽] に終わって しまったんですねまそれからですねえ だいぶ経ってからですね2020年 にこの続きをちょっと書いたんですけれど も ま当時あの条項がですね新種の恥を発見さ れたっていうのがちょっと話題になって ですねでそのニュースの関係で私の地味な ブログでもですね7年前の記事が少し読ま れていたんですねそしてこの後ですね学会 の う状況はどう変わったんだろうかと思って ですねえちょっとだけ調べてみたんですね でえ まはこの エッセは読んでいたんですけども元々出店 である徳が吉の層に渡った日本猿という ものは未読だったんでえこれを読んでみ たらですねえ二が紹介した部分の前の方も ですね結構の面白い文章なんですよ ねえっとま私のニAという男がいるから 始まってですねえで沖縄のが色々出てくる んです ねでま本当に えその カブトガニは沖縄にはいなかったんじゃ ないかあ日本での分布は岡山愛媛四国 あたりに限られていると思ったかという風 に えま小電荷がですねえ当時当時の小電荷が 指揮されてえ徳がしもちょっと驚いたと いうような話がですね出てくてその後その 電脳諸室のサズの話になっているんですね えそしてですね えまこれあの一頃の話かって言 と交代使時代の条項陛下が美術市学の先生 から中国絵画の個人講義を受けていた時と いうことででこれあの昭和59年3月の別 執筆時点から67年前ということだからあ ま1977年昭和52年前後だと前後かと いうことですよねでえ でこの後ですねこの辺りもちょっとあの もう当時のリンクは切れちゃっているん ですけれども え南総時代13世紀でありながら中国の猿 ではなく日本猿と言われえ南総の外院画家 である猛将の作の伝承は可能単に始まるん だということでま色々となんか無理が説明 なわけですよ ねそしてですねこれがですね えでこれですねえどういう風な形で え進展があったのかと思ったらですね美術 師の世界では全然進展がないんですよねで 2015年の日本美術全集第6巻東アジア の中の日本 美術ではですね板倉あこれなんて読読み するんでしたっ けえっとま板倉鉄でいいか東京大学東洋 文化研究所教授1965年生まれこの方は ですねえ中国南村時代12 世紀えガチには学科を示す関東の符合は 見当たらないが江戸加納単 の極めがきに猛暑しとあることから猛暑室 の伝承が あるえっと猛省はあな前期の外院 画家だが日本における猛暑の伝習は しばしばけがきの精密な築がに関されて いる猛の作品化田舎は他がないので確定 できないが日本に伝来した南総時代前期の 引退地中がの最優品であることは確かで その発信的な表現は射術を超えて内政的な 表情にも見えるさの病者は人間の肖像画に 匹敵すると表されている無背景の中で描か れているのは1匹の日本ざで日本との公益 でた珍獣としてえ南総艇で愛願された猿を 外院画が描いた可能性が指摘されている うずくまって白みを取る仕草だがそれまで 老人が試作に吹けるようでもある対明は 云々ということでですね えーま作品 の描写はいいとしてもですね えなんで え南草の画家が日本座を書いたのかって いうことについてのですね考察っていうの は別にないわけですよねでこの後ですねえ このずはA613年え元気元年え1573 月23日満州事業各条が天台雑に任じられ たのを祝して武田信玄がこの図を送ったと いう基信所が付属している付属している 翌年小田信長のによって比略は焼き打ちに されたが信玄はに亡命した各条発信のを 保護したそのため各条信のの計いでご掃除 という行為の総意を得たという風に書かれ てるんですねで私はですねこの後半は疑わ なかったんです ねで冷略寺の焼き打ちの後ですねえ信玄が 各条 を保護してあげたという風にらしは書かれ ているのでえまこの点疑わなかったわけ ですけども今回のシンポジウムでですね なんかこれ違うみたいだという話が出て ましたねそれあのまた後でちょっと話し たいと思いますがとはこのサズ日本猿が 描かれてるサズの問題なんですが結局 2015年の板倉製鉄史の解説によっても ですねなんか全然その お問題はやっぱり解説あの 解消されていないですよ ねこれですね あのこれこの後 ちょっともう少しだけ調べたんですけれど もお あれこれじゃなかった な武田信玄所証っていうのがですねえこれ が あの山梨剣士資料兵に出てるんですねえ それを見る とま全読もうとするとちょっと私の実力が ばれてしまうので読みませんが あザスに疲れたことを祝うためにですね えま色々書いてありますけどもA一服 猿猿が書かれた絵の絵をですね一服 差し上げますということで確かに書いて あるんですけどもしかしですね えそう書いてあるだけでなんだか随分 あっさりしてるわけですよねこれが もし層から伝来した南層で作られてですね ええ日本に伝来した有金であるならばあ その説明ぐらいあっていいと思うんですよ ねあまりにそっけな書き方なんですよね 信玄の書き方は でえでも初出さるズは同じく重要文化財の 音 寺家計3水図と比較するとガチにえ肝臓員 もなく東山魚巨物とといった履歴もなくで 通説によれば13世紀から約300年三倉 鉄説によればさらに1世紀遡って12世紀 から約400年の空白を経て突如として 元気元年1570年武田信玄の元に出現し たということなんですよ ねそんなことがあるんだろうか とで武田信玄はですねなかなか その共有豊かでですね えっと本人も絵を書きますしあとその弟の です [音楽] ね えっと醤油弟だでしたっけえっと あ同母でいいんですよね震源の同母邸で 信玄の物を出血して商用権の仏と合した人 がですねこの人は本格的な学科なわけです よ ねで えま身近にそんな学がいるんだったらです ねサズ商件でいいんじゃないかみたいな ことをちょっと書いたんですけどさすがに それは多分なくてですね天座す就任祝いの 健常品だからですねそれなに立派なももの だったのかもしれませんけれどもしかしえ もしですねそれが あの数百年前に層から伝来したものであっ たらばやっぱりその履歴をですね書くと 思うんですよ ね何にも書かずにただ絵を送るていのも ちょっと変な話でえ結局これえ納得は私は できないんですよ ねでまあ6年ぶりに色々調べてみたんです が手間がかかったわには全然収穫なかった ということでですねえ板倉市はあこんな風 に言われているんですけれども あそうだあとはですねその う交代使にですね え日本これ日本なざるじゃないのって言わ れた美の先生っていうのはおそらく鈴木K なんですねえ鈴木これも高しって読むん ですかね東大名誉教授学会委員で えこの人はま変に窮してですね宿題として 持ち帰ったとうんでえその後長の回答を 出したということですけれどもこのですね え鈴木経画ですねえ大長中国絵画市上官 中間の1中間の2義っていう全発冊のです ねえものすごいシリーズものの方を出して いるんですけれどもこの中でですねえ電 猛省しさるずに一切言及してないんですね 私もちょっと気になってですね えまあ防戦は鈴木系だろうという風に思っ てですねえちょっと苦労してこの中国海岸 市前発刊をですねえ図書館でえ書庫から 出してもらって全部見たんです全部っと いうかま関係する部分見たんですけれども やっぱり電も初出さるずに一切言及して ないんで はですね後田市電界への一応の回答の後 改めて実行して従来説を維持するのは無理 だと判断されたのではないかとま私は想像 するわけですねで歴史的事実として確実な のは元気元年先出し人間が満主院各所の 天台座す就任祝としてサズを送ったこと だけということで えで自ら絵を描くなど相当の教養の持主で あった信玄がですね仮にサルズが日本に 伝来した南総時代前期の引退築上がの最優 品であると思っていたならばそれなりの 融資を説明するのが自然ではないかと しかしそんな説明は全然ないということで ですねま私はこのサズは比較的新しい作品 で え信玄が天台座の健常品として忙しい絵を ですねえ三条不審の縁などを通じて京都の 画家に特注した程度の話なんじゃないかな ていう風な感じがするんですよねまそう いう経緯であればそこに描か描かれる猿は 中国風の猿じゃなくて日本猿になるわけで その方がはるかに自然なんじゃないかなと 思うんですねでいずれにしせを日本に伝来 した南総時代前期の引退築画の最優品がま 板倉説によれば通説よりさらに1世紀遡っ て12世紀から約400年の空白を経て 突如として元気元年1570年震源のもに 出現するということでですねそんな不自然 なことはないだろうとま私は思うわけです ねでまきちんとした根拠に基づく説明が できず単にサルズの発信的な表現は南総 外因でしか生まれないのだといった信念 しか語れないのであれば板倉氏は研究者で はなく鑑定化したで鑑定化としてですね何 でも鑑定団にでもいえ登場してりゃいいん じゃないかという風にま私は思うわけです ね [音楽] 正直なんか美術Cの世界もいい加減だなと いうのを私はサズを調べる経緯でえ思った わけですえまあというだけの話なんです けどもあとですねそのさっきの各所 が会に避難したかえっと映山野中直後に ですね会に避難したのかっていうのがです ねえ 相馬の発表の中でちょっと出てきまして えっと相馬 のそのレジメによるとですね あの 吉澤原始がですね初め市が あ各所は映山野球直後に会に避難したと いうことをですねこのえに見る中世宗教と いう論文でえ言われているらしくてそれに 対して大塚の李浩はですねえこの戦国総理 列列伝という本で えそんなことはないだろうという風に そんな証拠はないんだというようなことを 言われてですねで総馬も やっぱりいろんな周辺の事情を見ると 焼き打ちご京都に各所はですね焼打も京都 にいてこ風には言っていないと見るべきで はなかろうかということでですねであの 質疑応答の中で吉沢市もですね えちょっとあのえこの論文で書いたことは あ資料的根拠はないことだったっていう ことをなんか認められていましたねえっと ま当時ですね34本論文を抱えていて大変 だったのでちょっといい加減に書いて しまったみたいなことですねえ吉が言われ ていたんでまこの問題着したのかとは思う んですがただあの別にですねえ吉田市以前 にも多分各所は冷え山え焼き打ち直後に会 に避難したっていうことがということを 言ってる人が相当いてですねそれが あの え板倉製鉄市のですねさっきのあの解説に も反映してるような感じがするのでこの 辺りですねえまあ 後でちょっと確認してみたいと思いますま 私の関心はあくまでさずにあるわけですが ただあの各所 と武田信玄との関係は歴史研究者もですね 相当緻密に研究されているようなのでまあ 当然そういう方たちもサルズについてです ね色々調べておられるでしょうからまあ 今更ですね私 がちょっと周辺の事情を調べようととして も多分大した結果は出ないだろうなという 風に思いますまというかその資料がもう ないわけですからもうどうしようもない ですよねで まいらしあたりはこれから先も永遠にです ねえ難層の作品だと言い続けるわけ でしょうがま歴史学的な観点から見たら ですねえ何言ってんのっていう感じがし ないでもないですねま別に私が歴史学者の 代表ってことじゃありませんがいくら何で も言ってることは変だろうという風に思わ ざる得ないです ねまということで今回はあくまでですね そのシンポジウムえ日常のシンポジウムに 関して え私が感じたことをですねえメモに残すと いうことでええそういう趣旨の話でした おそらくですねこれこのシンポジウムの 内容っていうのは 後でえ多分本本になってですね吉川文官 あたりから出てくるんじゃないかなと思い ますのでまあ正確な内容についてはですね そちらを見てから あということになると思います え今回の配信は以上とします

一、シンポジウムの概要

JSPS科研費「中近世移行期の門跡に関する史料学的研究」成果報告シンポジウム
「中・近世門跡論の可能性を探る」
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-21K00840/

日時:2024年6月16日(日)10:30~17:30
場所:東京大学史料編纂所大会議室(福武ホール地下一階)

近藤祐介「中世の門跡寺院と院家─若王子を中心に─」
相馬和将「中世末期の山門派門跡と延暦寺復興」
太田光俊「門跡となった真宗の本山寺院─専修寺を中心に─」
石津裕之「近世における門跡の「寺務所」」
水谷友紀「近世の門跡と南都寺院」
大田壮一郎 コメント
質疑応答

二、門跡

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大田壮一郎氏のレジュメの冒頭に「恐れ入り谷の鬼子母神 嘘を築地の御門跡(滑稽本 19世紀)」とあったが、私は後半を聞いたことがなかった。「恐れ入り谷の鬼子母神」はもちろん入谷真源寺。
https://x.com/IichiroJingu/status/1802700505317302622

「恐れ入り谷の鬼子母神」は太田南畝が最初に言い始めた地口のようだが、「嘘を築地の御門跡」は別に前者とセットという訳ではないようだな。こちらは築地本願寺。
https://ameblo.jp/kochisanpo/entry-12302396257.html

浄土真宗の門跡は特殊。

門跡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%80%E8%B7%A1

『雲上明覧』と西本願寺〔2017-06-10〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1855c9739dde30de73b78e6c0728c426

万波寿子『近世仏書の文化史 西本願寺教団の出版メディア』(法蔵館、2018)
https://pub.hozokan.co.jp/book/b522506.html

三、高田専修寺

太田光俊氏(三重県総合博物館学芸員)
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/000237360.htm

真宗高田派本山専修寺
http://www.senjuji.or.jp/
一身田の歴史(「一身田なび」サイト内)

一身田の歴史


「一身田 -壮大な御堂と環濠の残る旧寺内町-」
http://www.koutaro.name/machi/ishinden.htm

永井晋氏「倉栖氏の研究─地元で忘却された北条氏被官像の再構築─」(その2)〔2022-07-16〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cfef6c92f27660acfc5a871d76b993d7
東国の真宗門徒に関する備忘録(その3)~(その7)〔2022-07-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7cb2575c49bed5a1dae4ed319a1477bc
【中略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed98f9585952a83dfc1cc4760232a626
西岡芳文氏「初期真宗へのタイム・トリップ」(その3)(その4)〔2022-08-22〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/542bdcd450a6e6486adb537fa083f190
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/50882079961d26d701495467a427e90d
平松令三氏「高田宝庫より発見せられた新資料の一、二について」(その1)~(その4)〔2022-08-23〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eeb69dee9780cb5131b0bd8af08efb16
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0d3384f0124fe3f4921181968aeb42fe
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/797c3c01d9beced5f9f303a97eb75ef3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5fa9c08335ab2434bc74ff66e134343
「甲斐国等々力万福寺旧蔵の親鸞聖人絵伝(六幅)」(その1)~(その3)〔2022-08-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/00ae0360a9ba8715b1248f28a480d96c
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b21ddab1a1da21843789465fc57d3073
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d5e40c9f0b3fb0aeeedab8a94818180
津田徹英氏「親鸞の面影─中世真宗肖像彫刻研究序説─」(その2)〔2022-09-03〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/31bca838fab735531350578b9c184a18
0017 赤松俊秀氏『鎌倉仏教の研究』について〔2024-01-19〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/16d3ff660fab5778546b463116624d99

四、覚恕と武田信玄

覚恕は叡山焼討直後に甲斐に避難したのか。

芳澤元氏「髭僧にみる中世東国と宗教」(菊地大樹・近藤祐介編『寺社と社会の接点』(高志書店、2021)
大塚紀弘「覚恕」(日本史史料研究会編『戦国僧侶列伝』星海社、2018)

比叡山焼き討ち (1571年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%94%E5%8F%A1%E5%B1%B1%E7%84%BC%E3%81%8D%E8%A8%8E%E3%81%A1

覚恕(後奈良天皇皇子、天台座主)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%9A%E6%81%95

元亀三年(1572)七月、覚恕は武田信玄への権僧正任官の斡旋。

伝毛松筆「猿図」と天皇陛下〔2013-11-09〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2305c0aedbd1493c2f37ea9e4d8b3241
もしも展覧会会場が火事になったら〔2013-11-11〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c69faf1a391871babc4bc2fc684f7587
上皇陛下と伝毛松筆「猿図」(その1)(その2)〔2020-07-15〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7afa7f9e2c91857131c4591ae280dba5
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fd2040e69b12a5a4b7a1126189d398b3
「日本に伝来した南宋時代前期の院体畜獣画の最優品であることは確か」(by 板倉聖哲氏)〔2020-07-18〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/244dc54d53a90057c102d99556741f1f
「猿図」と三条夫人〔2020-07-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ea65b74ffeefbecd2385d407caec03ea
武田信玄書状(元亀元年七月十九日)〔2020-07-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e4ad981ced59f80cd12bf76e98fd3be4
武田逍遥軒信綱〔2020-07-29〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/af92863f21126933873d4b67864d6c4f
板倉聖哲筆「伝毛松筆・猿図」極書の鑑定〔2020-07-31〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3f51e1cc9c74f3b4c805ccc6c52a4333

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